宝塚歌劇団在籍時代とは? わかりやすく解説

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宝塚歌劇団在籍時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 11:22 UTC 版)

園井恵子」の記事における「宝塚歌劇団在籍時代」の解説

アルルの女』(1934年)。母子演じた葦原邦子と。 男役姿。『愛国大学生シモン役(1939年)。 翌1930年音楽学校本科生となり、劇団第19期生として花組編入当時芸名は「笠縫清乃であった同年4月から上演されレビュー春のをどり』で初舞台踏み同年12月から芸名を「園井恵子」と改めた1931年3月末に宝塚音楽学校卒業し月組配属となる。8月白井鐵造作『ジャックと豆の木初日において、母親役の高千穂峯子が突然倒れたことにより、予定のなかった園井急遽代役として出演30分で台詞覚えて演じきり、好評博した10月には『ライラック・タイム』に門番婆さん役を好演し宝塚歌劇創始者小林一三から「今年最大収穫」と賞賛された。以後役付き良くなっていき、喜劇的な役どころ中心に奥方役、老婆役など、できない役はないというほど多彩な芸を持つ名バイプレーヤーとして地歩を固めていった親しかった桜緋紗子、社敬子、葦原邦子はいずれも、園井好演作として主人公の母親「ローズ」役を演じたアルルの女』(1934年)を挙げている。この作品当時大ヒット記録し、後に全国宝塚劇場開場するたびにこけら落とし作品として選ばれた。 1938年からは新規に設立され宝塚映画にも出演時局悪化閉鎖される1941年までに『軍國女學生』、『山と少女』、『雪割草』、『南十字星』などの作品出演した1942年1月には、東宝高峰秀子と共に古川ロッパ一座舞台へ客演。場所は、東京日比谷有楽座」で、これは東京宝塚劇場社(東宝前身)の運営劇場だった。それでも当時宝塚現役生徒初の外部出演として話題となった抜擢したのはロッパ一座劇作行っていた菊田一夫で、園井宝塚1940年出演した赤十字旗は進む』(菊田作)での芝居を非常に気に入っていたことによるこのころ園井はすでに新劇への転向志しており、吉岡重三郎東京宝塚劇場社長)から「あなたは築地のような芝居やりたいということですが、それも一案ですが、当分ロッパ舞台で続いてやられてどうかと思う」との書簡受け取っている。しかし結局同年主演したピノチオ』(4~5月宝塚大劇場8~9月東京宝塚劇場)を最後に園井宝塚退団する。同作脚本担当した内海重典は、園井主演抜擢されたことに「驚いた」と述懐しているが、これはもともと春日野八千代振られていた役で、園井退団意志知っていた春日野劇団掛け合い、役を譲ったのだとも伝えられている。内海重典の妻、内海明子元宝歌劇団・加古まち子)によれば劇団園井退団反対していたが、退職金辞退して強行退団であった

※この「宝塚歌劇団在籍時代」の解説は、「園井恵子」の解説の一部です。
「宝塚歌劇団在籍時代」を含む「園井恵子」の記事については、「園井恵子」の概要を参照ください。

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