宗教用語としての変遷:霊性とSpirituality
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「スピリチュアリティ」の記事における「宗教用語としての変遷:霊性とSpirituality」の解説
語源や漢語としての用例史については「霊性」を、キリスト教における霊性史については「霊性 (キリスト教)」を参照 以下、日本における漢語・訳語としての霊性の用例とスピリチュアリティの表記の変遷、および英語圏でのSpiritualityの用語の変遷について概説する。 スピリチュアリティ(英語:spirituality)の語源は、呼吸や息、いのち、意識、霊感、風、香り、霊や魂を意味するラテン語のスピリトゥス(spiritus)に由来する。。現代英語のspiritは、精神、心、霊魂、聖霊、生気・活気などと訳される、肉体との二元論的な意味合いを持つ。これに対して日本語の 「霊」は自然界を含めてあらゆる「霊」が含まれるアニミズム的なものであり、一神教における二元論的なスピリトゥスとは異なる。 漢語としての「霊性」は、非常にすぐれた性質や超人的な力能をもつ不思議な性質、天賦の聡明さなどを意味する。日本でも平安時代末期から神道家卜部兼友や禅僧道元以来の用例がある。 1880年(明治13年)に完訳したスコットランド聖書協会による「新約全書(明治元訳聖書)」で英語 the spirit of holiness が「聖善の霊性」として翻訳された。1914年(大正3年)には鈴木大拙がスヴェーデンボリの翻訳において spirituality の訳語として「霊性」の語を用いた。 鈴木大拙は1944年の著書『日本的霊性』で、日本的霊性としては鎌倉時代に勃興した禅と浄土系思想(ことに真宗信仰)を、最も純粋な形のものとして挙げている。神道は日本民族の原始的習俗の固定したもので、日本的なるものは余りあるほどあるが、霊性の光はまだそこから出ていないとしている。鈴木は、霊性は民族がある程度の文化段階に進まないと覚醒されないとし、宗教意識は霊性の経験であり、霊性に目覚めることによって初めて宗教がわかると述べている。鈴木は精神と霊性を区別しており、精神には倫理性があるが、霊性はそれを超越しており、精神は分別意識を基礎としているが、霊性は無分別智であるという。精神が物質と対立して、その桎梏に悩むとき、自らの霊性に触れる時節があると、精神と物質の対立相克の悶えは自然に融消し去るとし、これが本当の意味での宗教であると述べている。鈴木大拙は、霊性の問題はある点では議論を許さぬところがあるので、いわゆる水掛け論に終わることがあるが、『碧巌録』の言葉「相い罵ることは你(なんじ)に饒(ゆる)すに觜(くちばし)を接(つ)げ、相い唾(つばき)することは你に饒す水を撥(そそ)げ」で、これより外に仕方あるまいと述べている。鎌田東二は鈴木大拙の日本的霊性論は「大変偏っている議論だ」とし、神道、道元、日蓮、南方熊楠、宮沢賢治について論じている。
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