姓名について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 14:39 UTC 版)
通称は源太郎。号は最初は琴守、後に鷺外、更に花陵と改め、別号に墨流亭、都多之舎(蔦舎)、後素堂など。御楯ははじめ号だったが、後に名として使用した。姓は初期作には「川邊」と款記し、御楯存命中から昭和初期までの文献類でも同様だが、明治20年以降は作品に「川邉」と記し遺族も同じ名乗りなことから、この頃改姓したが文献類では最初の姓がそのまま使われ続けたと考えられる。本項目では常用漢字の「川辺」で立項している。姓の読みは「かわのべ」としている文献もあるが、御楯の子孫の指摘から「かわべ」が正しい。
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姓名について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:34 UTC 版)
当時の人名録には、ほぼ同様に「画 一信(号顕幽斎)浜松町二丁目 逸見一信」と登録されている。一信は狩野直信という絵師に学び「狩野」姓の名乗りを許されたと伝わるが、一信の画風からは狩野派との類似性は乏しい。さらに現存する一信作品の署名は、「源一信」「顕幽斎一信」、僧位を得てからは「法橋一信」「法眼一信」と記しており、「狩野」署名のある例はない。このことから「逸見一信」、あるいは一信が自作に落款した通り「顕幽斎一信」と呼ぶ方が適切とする意見もある。狩野一信と呼ばれ始めたのは、明治27年(1894年)8月の大村西崖「狩野一信伝」(京都美術協会雑誌27号)が初見で、以後諸書に引用されてこの名が広まっていった。反面、大村は妻・妙安に取材してこの文章を書いており、「狩野一信」という表記には妙安の意向が強く反映されていると想定できる。妙安は先述の通り生涯一信を支え、その画業の顕彰に努めており、その遺志を尊重すべきという意見や、ようやく「狩野一信」の名前が広がりつつある現状で表記に混乱をきたすのは避けるべきだとする意見もある。
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姓名について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 22:06 UTC 版)
『小倉碑文』には、小次郎の名は「岩流(巖流)」としか書かれておらず、前述の『沼田家記』には「小次郎」(初出)とのみ書かれるなど、文献によって姓名にばらつきがある。「佐々木小次郎」が揃うのは、武蔵の死後130年経った1776年に書かれた『二天記』の注釈(本文では「岩流小次郎」で、名乗りなのか剣号なのか不明)である。より古い史料には佐々木姓は見られず、『二天記』が準拠した『武公伝』(1755年)では「巌流小次良」「巌流小次郎」となっている。 魚住孝至は『宮本武蔵』で、佐々木姓は『二天記』の40年前、1737年に上演された狂言の『敵討巖流島』に登場する「佐々木巖流」から名を採ったものであろうと推察している。なお、1746年上演の浄瑠璃『花筏巌流島』には「佐々木巌流」、1774年の浄瑠璃『花襷会稽褐布染』には「佐崎巌流」が登場するなど、『二天記』が書かれる頃には「ささき」姓が広まっていた。 姓は佐々木の他に『丹治峯均筆記』(1727年)では「津田」と記され、黒田藩の重臣である小河家の文書には「渡辺」と記されている。また、『江海風帆草』の「上田宗入」、『岩流剣術秘書』の「多田市郎」など、「佐々木」でも「小次郎」でもない姓名も知られている。
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