「岩松八弥」の名称
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 16:51 UTC 版)
「岩松八弥」という名がすべての史料に出てくるわけではない。 昭和9年(1934年)の『岡崎市史別巻 徳川家康と其の周囲』上巻(191頁)では、広忠殺害とその実行者を「岩松八弥」として記す。『新編 岡崎市史2』(1989年)も『岡崎市史別巻上』の結論を認めた上で、「三河物語」と「松平記」が広忠の殺害を記さないのは、父・清康に続き2代にわたって横死した事実を忌み嫌った「作為」のためであろうとしている(709より711頁)。 「三河物語」には「八弥」「弥八」のいずれも現われない。また広忠が傷害を負ったことも記されていない。 「岡崎領主古記」「三州八代記古伝集」共に「八弥」の姓名については記すところがない。 植村右衛門佐による「貞享書上」に「岩松八弥」という名がみえる。 大正15年(1926年)発行の『岡崎市史 第1巻』334頁も「八弥に刺されて没した」と断定している。しかしこの段階では「岩松」とはしていない。 「武徳大成記」では「岩松八弥」の名を記す。
※この「「岩松八弥」の名称」の解説は、「岩松八弥」の解説の一部です。
「「岩松八弥」の名称」を含む「岩松八弥」の記事については、「岩松八弥」の概要を参照ください。
- 「岩松八弥」の名称のページへのリンク