岡崎領主古記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 16:51 UTC 版)
成立は、正保2年(1645年)~寛政10年(1798年)の間と考証されるが、実際には、寛政11年(1799年)写のモノしか確認できない。また、文中には、井上信好書写朱字加筆および加茂久算貼紙貼付のされている箇所が多数あり、朱書きや貼り紙の部分の加筆も含めれば、江戸末期の成立といえる。加筆部分は、本文中の間違いを指摘するモノがあり、史料価値に問題がある。片目弥八の広忠襲撃事件においても、朱書きで、御年譜附尾には、この事件は天文14年3月のことで、傷浅く、天文18年3月逝去。と書き入れがあり、井上信好も徳川家年譜との違いを疑問視している。 また、原本は水野監物秘蔵本としながらも、桶狭間の合戦の折の刈谷城落城の時の城主を、水野藤九郎守世、朱書きで系図に守近とするも、いずれも誤りで、正しくは水野信近である。守世、守近なる人物名は存在せず、信近の前の城主の水野近守を誤ったものと思われる。 また、徳川家の天文年中の五奉行(豊臣五奉行の模倣?)の人名が、記載されるが、岡崎市の浄珠院の古文書の天文五年の広忠公奉行人連署證文の人名と1人も一致せず、こちらは7名である。
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