「佐久間切り」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 16:51 UTC 版)
「三河物語」に次のような逸話がある。広忠に呼び出された「天野孫七郎」は「広瀬の佐間ヲ切テ参レ」と命じられた。これを受けて「佐間」に仕えた彼は、その寝所に忍び込んで首を切ったという。また「譜牒余録」の「天野孫七郎事跡」は、広忠の死を天文18年3月とした上で、同年10月に「参州広瀬の城主 佐久間九郎左衛門」の首を斬り、その功績により阿部定吉、石川忠成の連署で50貫文の知行を与えられたこと、また今川義元からも感状を受けたとして、これを文書の形にして記している(刊行本上巻94および95頁)。 「岡崎領主古記」は広忠暗殺の「計略顕レ知レ」と記し、天野による佐久間殺害をその報復であったとする。しかし「三州八代記古伝集」や広忠病死説をとる「武徳大成記」は彼の行動を広忠の命によるものと記している(刊行本1巻87および88頁)。後者はその理由を「佐久間」が広瀬城に立てこもり近隣を掠めたことにもとめるが、広忠殺害説を支持する「新編 岡崎市史2」は「三河物語」が広忠横死を隠蔽したために、天野の武勇伝の位置づけを変えたのだと推測している(711頁)。一方で、広忠病死説を支持する村岡幹生は佐久間と広忠の間に遺恨があり、それがきっかけで佐久間の命を受けた八弥が広忠を衝撃したとしても、それを広忠の死因とする裏付けは何もない以上、当然佐久間殺害も暗殺の報復とは言えないとする(村岡は佐久間が斬られたのは安祥城攻防戦の最中であったとしている)。また、広忠暗殺が事実であったとした場合、それによってメリットを受けるであろう暗殺を仕掛けた勢力によって何らかの行動が発生すると考えられるのに、そうした動きは特別に見られないとして、暗殺説は後世の付会に引きずられた意見でしかないとしている。
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