女王の母
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/20 14:04 UTC 版)
「フランセス・ブランドン」の記事における「女王の母」の解説
ジェーンにはサマセット公爵の嫡男エドワード・シーモア卿との縁談が持ち上がったが、婚約に至らなかった。その後、グレイ家にはサマセット公を失脚させて国政の実権を握ったノーサンバランド公爵からの縁談が舞い込んだ。ノーサンバーランド公はジェーンと自分の四男ギルフォード・ダドリー卿、また同時にフランセスの次女キャサリン(英語版)とペンブルック伯爵家の嫡男ヘンリー・ハーバート(英語版)結婚させることを提案した。この提案はプロテスタント貴族の指導者層の間の政治的な結束を強めることと同時に、カトリック信徒のメアリー王女の王位継承という、来たるべき危機への対抗をも目的としていた。フランセス自身はジェーンとギルフォードとの結婚を良い結果にはならないと見ていたが、止めることは出来なかった。ヘンリー・グレイもノーサンバランド公の圧力を受け、ジェーンを説得して結婚に同意させた。同時代人のロバート・ウィングフィールド(Robert Wingfield of Brantham)によれば、フランセスはこの縁組に強く反対したが、「女の悪い予感など誰も真面目に受け取らなかった」。 ジェーンの婚礼の際、フランセスは嫌がる娘を力ずくで教会の祭壇に引っ張っていったという俗説が広く流布しているが、これはジュリオ・ラヴィリオ・ロッソ(Giulio Raviglio Rosso)の "Historia delle cose occorse nel regno d'Inghilterra" の中に登場する記述を故意に書き変えた改変版を出典とする。また、この改変版の他の記述では、ジェーンは母フランセスではなく父ヘンリー・グレイに殴られて無理やり従わされたという。つまり改変版の主張では、ジェーンは母親には反論したが父親の叱責には従ったのである。ラヴィリオ・ロッソのオリジナル版は単に「彼女はしばらくこの結婚に抵抗したが、母親の説得と父親の叱咤に従った」と記述するのみである。 両親が娘の結婚相手を決めるのが当たり前だったテューダー朝時代に、娘が両親の意思に逆らうことは異例であるし、むしろ「不自然」とさえ言える。当時の一般的な考え方として、子供はその両親に従順でいることが義務付けられており、親の子供に対する権威は広く認められていた。フランセスが娘を乱暴に扱ったとする、近年まで長く一般的だった描写は、そうした歴史的な背景を度外視している。 グレイ家の2人の娘たちの結婚式は、1553年5月21日にダラム・ハウス(英語版)で行われた。長女ジェーンとギルフォード、次女キャサリンとヘンリー・ハーバートが結婚し、末娘のメアリー(英語版)も同族のアーサー・グレイ(英語版)と婚約した。結婚して1週間後、ジェーンは早くも姑のノーサンバランド公爵夫人(英語版)と衝突し、婚家の許可なく実家を訪れて母フランセスに相談に来ている。この時のジェーンの取り乱し様から、おそらく姑に自分が死の床にあるエドワード6世の王位継承者に指名されることを聞かされたと思われる。ジェーンの里帰りのため、フランセスとノーサンバランド公爵夫人との間には緊張が生じた。フランセスは娘を自分の屋敷に留まらせようとし、ノーサンバランド公爵夫人はこれを聞いて腹を立てたが、息子ギルフォードになだめられた。ジェーンの帰宅騒動はスキャンダルに発展したので、ジェーンとギルフォードの若い夫婦は人目を避ける必要からチェルシーに連れて行かれた。 フランセスは7月8日にジェーンに呼び出された。彼女はその数日前に余命幾何もないエドワード6世に謁見し、王から自身の王位継承権を放棄して一介の貴族となり、嫌がっているジェーンに女王になるよう説得してほしい、と頼まれていた。フランセスは女王となった自分の娘の臣下の一人として、ジェーンのロンドン塔入城に随行したが、当時の人々の目には、王位継承順から言っても親子の関係から言っても、母が娘にひざまずく姿は秩序の逆転のように思われた。ロンドン塔でジェーンが女王として君臨した数日間、フランセスは傍らで娘を支え、ジェーンの支持者たちを束ねる役目を果たしたが、そのせいでフランセスと娘婿ギルフォードとの間に衝突が起きた。しかし、国民の多くがメアリー王女を次の統治者として支持していることが判明すると、フランセスは大変なショックを受け、泣きながらメアリー王女に彼女を女王と認めるとする手紙を書き送った。
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