女王の帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 08:48 UTC 版)
「ジェームズ・ヘップバーン (第4代ボスウェル伯爵)」の記事における「女王の帰国」の解説
1560年に夫フランソワ2世と死別して未亡人となった女王メアリーは、1561年8月20日に帰国した。女王の帰国に当たって、ボスウェル伯は海軍司令官として万全を尽くした。当時のスコットランドの実力者だったマリ伯ジェームズ・ステュアートは、なんとかボスウェルを会衆の仲間に引き入れようと何度も説得を試みたが、彼はあくまでもメアリーに忠誠を誓い、決してこの誘いに乗ろうとはしなかった。このため、マリ伯とボスウェルは終生にわたって激しく対立することとなった。また、マリ伯は影で手を回して、できるだけボスウェルをエディンバラから遠ざけ、枢密院に影響力を持てないようにした。権謀術数を駆使するマリ伯に比べ、どちらかというとボスウェルは行動型のタイプで、自分が主体的に関わらない場合、宮廷での貴族たちの謀略を嫌っていたという。 1565年7月29日、女王メアリーとダーンリー卿ヘンリー・ステュアートが結婚したが、8月1日にはエリザベス1世からの援助を取り付けたマリ伯が反乱を起こした。しかし、期待していたイングランドからの援軍は現われず、ボスウェルはマリ伯の軍隊を撃退し、マリ伯は他の主犯格のスコットランド貴族たちとイングランドに亡命した。同年、ボスウェルはスコットランド有力貴族で有力なカトリック貴族でもある、ゴードン家のハントリー伯の妹ジーンと結婚した。ゴードン家は1562年の夏にメアリーに対して謀反を起こしていたが、マリ伯の反乱鎮圧のために恩赦を与えられて地位も回復していた。
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