ウィルヘルミナ (オランダ女王)とは? わかりやすく解説

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ウィルヘルミナ (オランダ女王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/08 03:36 UTC 版)

ウィルヘルミナ
Wilhelmina
オランダ女王
在位 1890年11月23日 - 1948年9月4日
就任式 1898年9月6日
於 アムステルダム新教会

全名
出生 1880年8月31日
オランダデン・ハーグ、ノールドアインデ宮殿
死去 (1962-11-28) 1962年11月28日(82歳没)
オランダアペルドールン、ヘット・ロー宮殿
埋葬 1962年12月8日
オランダデルフト、新教会
配偶者 ヘンドリック・ファン・メクレンブルフ
子女 ユリアナ
家名 オラニエ=ナッサウ家
父親 ウィレム3世
母親 エンマ・ツー・ヴァルデック=ピルモント
宗教 キリスト教オランダ改革派(プロテスタント)
サイン
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ウィルヘルミナオランダ語: Wilhelmina, 1880年8月31日 - 1962年11月28日、在位:1890年11月23日 - 1948年9月4日)は、第4代オランダ国王女王)。

オランダ国王ウィレム3世と後妻である王妃エンマの長女で、1948年に娘のユリアナに譲位するまで58年にわたり在位した。1890年のウィルヘルミナ即位以後、2013年に孫ベアトリクスが退位し曾孫ウィレム=アレクサンダーが即位するまでオランダは女王の治世が3代123年続くことになる。

生涯

少女時代

1890年撮影、幼い女王と摂政エンマ王太后

1880年ウィレム3世と2番目の王妃エンマの長女として誕生。ウィルヘルミナ・ヘレナ・パウリーネ・マリア(Wilhelmina Helena Pauline Maria)と名付けられた。ウィレム3世は最初の王妃ソフィーとの間に3人の王子がいたが、次男マウリッツ王子は幼くして夭折。さらにウィルヘルミナの誕生の前年に、長男オラニエ公(王太子)ウィレム王子が39歳で逝去し、三男のアレクサンダー王子がオラニエ公となっていた。しかし、1884年にアレクサンダー王子も病死し、異母兄たちは独身で嗣子がいなかったため、ウィルヘルミナ王女が4歳にして王位継承者となった。

1890年11月23日、父ウィレム3世が崩御すると、当時まだ10歳だったウィルヘルミナ王女が女王として即位した。女王が成人するまでの摂政を母エンマ王太后が務めた。1895年5月3日訪英したウィルヘルミナ女王は、英国のヴィクトリア女王に会見した。当時世界最年少の女王が、世界最年長の老女王から次のような評価を得た。

若い女王は、この8月で15歳になるようだが、大変にほっそりしていて、優雅で、好印象を与えてくれる。それに大変聡明そうで、魅力的な少女だ。彼女はとても英語が上手く、礼儀がしっかりしている。

—中公文庫「女王陛下のブルーリボン 英国勲章外交史」P213

女王親政

1898年、若き女王の即位式

1898年8月、18歳を迎えた女王の成人で王太后は摂政を退き、女王の親政が開始された。これに先立つ同年4月、親政開始の祝いにヴィクトリア英国女王よりロイヤル・ヴィクトリア・アンド・アルバート勲章を授与された[1]。当時、ヴィクトリア女王は外国の女性君主にはガーター勲章ではなく、代わりにこの勲章を授与していた[2]。ウィルヘルミナは9月8日に即位式を執り行った。

1901年、女王ウィルヘルミナはメクレンブルク公ハインリヒと結婚した。1909年、女王唯一の子であるユリアナ王女を出産した。死産と流産を繰り返したため、育ったのはユリアナ一人である。次代の女王であるユリアナの夫はプロテスタント信徒でなければならず、将来の王配探しは難航したが、1937年にドイツのリッペ=ビースターフェルト侯子ベルンハルトと結婚した。

20世紀初頭、国内では反革命党オランダ語版自由党オランダ語版社会党オランダ語版の対立があった。辛くも中立を守った第一次世界大戦後には、ナチ的な国民社会主義運動共産党オランダ語版・自由党の対立が激化した。

亡命

1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻から第二次世界大戦が勃発。オランダは中立の維持を模索するも、翌1940年5月、ナチス・ドイツのフランス侵攻電撃戦)が開始される。この第1段階がベネルクス3国への侵攻(黄色作戦)だった。ドイツはマジノ線を迂回して、ベネルクス3国へ侵攻。5月10日、宣戦布告なくドイツ軍の攻撃を受ける。期待していた英仏軍の来援はなく、5月14日ロッテルダム爆撃を受け、5月17日にドイツの占領が完了する。

1940年撮影、ラジオ放送に臨む女王

この間、5月13日早朝、ウィルヘルミナ女王は、英国王ジョージ6世に直接連絡し、イギリス空軍の来援を要請[3]。女王捕縛の命を受けたドイツの機動部隊から30分差で辛くも逃れ[4]、同日午後、イギリス海軍の支援を受け、同国の駆逐艦ヘレワードで亡命した女王は、英国南部のハリッジ英語版から英国王に再び連絡し、オランダへの帰還と抗戦を訴えた[3]。しかし英国側の説得を受け、ロンドンで亡命政府を樹立し、女王はラジオを通じて国民に語りかけ、レジスタンス運動の精神的支柱となった。

その後、米国の支援を受けて戦況は逆転。1944年6月のノルマンディー上陸作戦を経て、8月25日にフランスのパリ、9月4日にベルギーのアントワープが相次いで解放される。9月5日、英国は女王の帰国を許可する[5]。同日、ジョージ6世の秘書官は女王へのガーター勲章の授与を検討するようアンソニー・イーデン外相、さらにウィンストン・チャーチル首相へ書簡を送り、9月15日までに同意を得る[5]。翌16日、同月24日にジョージ6世とエリザベス王妃との会食の際に、ガーター勲章が授与されることが発表された[6]。これは、ガーター勲章が史上初めて外国の女性君主に授与された事例である。この際、先例を踏襲し、英国の女性王族と同様に、バナーの掲揚と王冠を飾り、騎士の象徴であるヘルメットは飾らず、またプレートも残さないこととなった。以後の女性君主に対しても同様になっている。

帰国と退位

1948年撮影

ガーター勲章を得て、晴れて女王はオランダ本国へ帰還した。その後、1945年5月8日にドイツは降伏し、欧州戦線は終結を迎えた。1946年7月30日、大戦中の支援の感謝を伝えるため訪英[7]。英国では大戦後初の晩餐会が催され、女王はガーター勲章を佩用して出席した[7]

一方、謹厳な女王が派手な式典やパレードを好まなかったこともあり、人々は大戦中と打って変わり、王室に好印象を持たなくなっていった[8]。また、戦後復興問題に加え、17世紀以来の植民地だったオランダ領東インド(現インドネシア)が1945年8月17日に独立を宣言し、オランダに対する独立戦争が勃発した。オランダへの国際的な批判も高まり、石油等の資源を失い本国が経済的な痛手を被ることも目前だった。

心身ともに疲弊した女王は退位の意思を表明し、1948年9月4日、即位式から50年を期して長女ユリアナに王位を譲った。

1962年11月28日崩御、82年の生涯の幕を閉じた。

子女

系譜

系図

オランダ王室
オラニエ公/オランダ総督
ウィレム4世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オラニエ公/オランダ総督
ウィレム5世
カロリーネ
 
 
 
 
 
 
 
ナッサウ=ヴァイルブルク侯
カール・クリスティアン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ナッサウ=ヴァイルブルク侯
フリードリヒ・ヴィルヘルム
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウィレム1世
兼ルクセンブルク大公
 
 
 
 
ナッサウ公
ヴィルヘルム
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウィレム2世
兼ルクセンブルク大公
ヘレーネ ルクセンブルク大公
アドルフ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウィレム3世
兼ルクセンブルク大公
 
 
 
 
 
エンマ ルクセンブルク大公家)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウィレム アレクサンダー ウィルヘルミナ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ユリアナ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ベアトリクス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウィレム=アレクサンダー
 
 
 
 


脚注

  1. ^ 君塚(2014) p.213
  2. ^ 君塚(2014) p.214
  3. ^ a b 君塚(2014) p.211-212
  4. ^ 君塚(2014) p.226
  5. ^ a b 君塚(2014) p.216
  6. ^ 君塚(2014) p.217
  7. ^ a b 君塚(2014) p.224
  8. ^ 君塚(2014) p.223-224

参考文献

関連項目

外部リンク

君主位
先代
ウィレム3世
オランダ女王
第4代:1890年 - 1948年
次代
ユリアナ



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