大鑽井盆地へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:56 UTC 版)
サミュエル・マースデン(Samuel Marsden)は1780年までに土地割譲を受け、ニューサウスウェールズで三番目に大きい牧場を経営していた。そこでウォーターハウスから譲り受けたメリノも飼育していたといわれている。マースデンは1802年バンクスに英国種を手紙で催促した。1810年に本国王室からエスコリアル5頭を輸入してからも、彼は純血維持と品種改良をつづけた。 1798年、ヘンリー・ウォーターハウスら三人が無事にオーストラリアへ持ち込めたメリノは13頭であった。ポート・ジャクソン植民地のジョン・マッカーサーが、到着を聞きつけてすぐそのメリノを全頭買っていった。ジョンは、当時の制度により、ニューサウスウェールズに赴任した英国士官としてパラマタ近くの土地100エーカーを得ていた。その特権で割譲された土地を最初に完全開墾したが、その功績にまた制度が適用されて新たに100エーカーを与えられた。ジョンの土地につくられたエリザベス農場では、耕作だけでなく牧羊も行われていた。1801年、ジョンは農場で生産した羊毛のサンプルをイギリスへ送った。これを見たバンクスに、メリノ羊の純血を維持するよう指導された。同年6月、ジェームズ・マーシャルという軍人の裁判をめぐってジョンは自分の部下と一緒に植民地総督と縁を切ると言い出したが、ウィリアム・パターソン上官に反対され決闘で切りつけてしまった。この罪でジョンは土地割譲権を取り上げられた上、ロンドンの軍事法廷に送還された。汚名を返上すべく、ジョンはカムデン卿(John Pratt)の支援をとりつけ、また国務大臣ホバート卿(Robert Hobart)に計画書を書き送った。そして1804年8月15日のキューで行われた競売でメリノ8頭を買っていった。ジョンは退役してオーストラリアに戻り、ネピアン川沿いの5千エーカーを特権で割譲された(Camden Park Estate)。そこでジョンは競り落としたメリノを南ア由来のエスコリアルと交配してカムデン・メリノという品種を誕生させた。 ウィリアム・ブライが大農による牧羊に反対したので、ジョンは1808年ラム酒の反乱で引導をわたした。ジョンも植民地から強制退去させられたが、1817年に植民大臣の許しを得てニューサウスウェールズへ戻った。それまではジョンの妻エリザベスが牧場を管理した。1819年、ラックラン・マッコーリーがエリザベスの腕前を称え700エーカーの土地を贈った。ジョンは1819年から翌年にかけてメリノ羊をタスマニアへ送り、4368エーカーを手にした。1821年、オスのメリノ300頭を上納する代わり、ニューサウスウェールズのカウパスチャー(Cowpasture)4368エーカーの割譲を受け、3630エーカーの土地交換も同時に行った。一昨年ジョンは政府にメリノ払い下げを提案しているので、さっきの300頭はそのように処分されたとみられる。1823年、ジョンとマースデンの活躍により搾取構造のある囚人法が廃止された。そして牧羊業者が囚人を更生させる責任を負うことになった。1824年、ジョンの息子らが羊毛会社(Australian Agricultural Company)をロンドンにつくった。翌年タスマニアにも会社ができた(Van Diemen's Land Company)。このころからザクセンのエレクトラルを輸入して使う同業も現れだし、またニューサウスウェールズでの牧羊が爆発的発展を見せた。 やがてオーストラリアの牧羊界は群雄割拠の様相を呈し、同地の羊毛はザクセンとシレジアのそれを圧倒した。1860年代、ジョージ・ホール・ペピン(George Hall Peppin (1800-1872))がランブイエ・メリノ等から夏の乾燥に強い品種を開発した。同じ頃、南オーストラリア会社(South Australian Company)がザクセンのメリノをベースに太番だがタフで内陸に適応する品種を開発した。
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