ザクセンとシレジア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:56 UTC 版)
ザクセン選帝侯領のメリノ・ウールはイギリスで選帝侯ウール(エレクトラル・ウール)と呼ばれ、毛織業者に売れまくった。 1765年に輸入された220頭のメリノはドレスデンに近いシュトルペンの選帝侯動物園に送られた。スペインから同行してきた羊飼いは翌年半ばまで牧羊を指導した。ザクセン王はすべての小作人に牧羊を義務づけ、また法令でオスのメリノを使った羊種改良をしないと牧場から追放するという措置まで講じた。1766年、メリノはザクセン農家に強制販売された。 ポーランド分割が進むにつれて、開発も加速していった。 メリノは1778年にも8月から翌年5月までかけてスペインから輸入され、ホーエンシュタインの牧羊学校に移されたあと、ローメン(Lohmen)の政府領に送られた。ここでは1783年から1923年までスペインの純血メリノが保有された。ここで繁殖したメリノは管理がゆきとどいており、オーストラリアに送られ、1829年スペインへ帰還した。 寒いロシアは今でも羊毛消費国であるが、ザクセンで改良されたメリノが1806年に輸出された。 エレクトラル・ウールはシレジア産と並び、19世紀なかごろに世界一の品質を誇った。もっとも、これらはドイツ関税同盟が結ばれたころから生産量を急速に減らしていった。この傾向は、同盟を主導したプロイセンのウールを保護する効果があった。このプロイセンにはジョン・コッカリル(John Cockerill)が羊毛紡績業者として進出していた。巨利を得たコッカリルは、グループ・ブリュッセル・ランバートやベルギー国立銀行と緊密なコンツェルンとなった。 1741年すでにプロイセン王国へメリノが王室経由で輸出されている。ドイツ帝国が三国同盟を結ぶまでプロイセンが牧羊に力を入れていたところをみると、南アフリカのメリノを確保してから本土の牧羊地を工業化させたようにみえる。ボーア戦争にジョン・モルガンやロスチャイルドが投下したカトリック資本は、スペインに対する制裁と英仏に対する牽制に働いた。 第二次世界大戦後、伝統的な牧羊地が東ドイツに帰属した。現在、東欧ではルーマニアなどが牧羊国である。
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