大学で知的交流を深め、医者になる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 03:55 UTC 版)
「ウィリアム・ペティ」の記事における「大学で知的交流を深め、医者になる」の解説
オランダではユトレヒト・ライデン・アムステルダムで医学を研究、1644年に海軍で稼いだ金を学費にしてライデン大学の医学部に入学。ライデン大学でフランシスクス・シルヴィウス教授から、解剖学と医化学を学んだと推測される。次いでアムステルダム大学のジョン・ペル教授に代数学を学ぶと共に、ペルの助手として働き、当時ロンゴモンタヌスとの間でペルが論争をしていた円積法の問題について、ペルの駁論をルネ・デカルトらヨーロッパ各地の学者に送った。 1645年11月頃にオランダを離れ、フランスのパリに移る。ペルの紹介状によりトマス・ホッブズの知己を得て、その縁によりマラン・メルセンヌを中心とする自然科学研究サークルに参加。メルセンヌ、ホッブズ、デカルト、ジル・ド・ロベルヴァル、クロード・ミドルジュらサークルに集った当代フランスにおける著名な科学者・知識人と交流した。ホッブズとは光学や解剖学の分野で協働し、数学的論証を重視する姿勢に大きな影響を受けた。 1646年、帰国してロムジーに戻り、留学中の1644年に父が亡くなっていたため織元を継ぐも、発明品(複写器)の販売のためロンドンに居を移す。販売は失敗に終わったが、フランシス・ベーコンの学徒らと交わり、王立協会の前身の1つでサミュエル・ハートリブ(英語版)を中心とするロンドン理学協会(ロバート・ボイルが不可視の学院(英語版)と呼んでいたサークル)に参加。ベーコンの経験論的な実験方法に強い影響を受ける。また、この時期に親友ジョン・グラント(英語版)と知り合ったと考えられている。 やがて1648年から1649年にかけてサークルの一部の人々がオックスフォード大学へ移ると、ペティも医学博士の学位を得るため後を追い大学へ移った。オックスフォード大学は第一次イングランド内戦で王党派の拠点と化していたが、内戦は王党派の敗北で終結、勝利したトーマス・フェアファクスが率いる議会派のニューモデル軍が大学へ入り込んで、1647年から1651年まで王党派教職員を罷免して議会派へ挿げ替える人事異動を中心とする改組が行われた。ペティが大学へ移住したのは第二次イングランド内戦の時期でもあった大学改組の最中で、彼が宗教に寛容だったことと、グラントとオックスフォード駐留軍の司令官であったグラントの義弟トーマス・ケルシーらと親しいことが有利に作用、ケルシーの強い推薦もありオックスフォード大学に迎えられた。 大学では1649年3月に医学博士の学位を取得、1651年1月に解剖学講座の教授となった。さらにブレーズノーズ・カレッジの副学長となり、グラントの斡旋によりグレシャム・カレッジ(英語版)の音楽教授となった。殺人の疑いで絞首刑に処せられた少女アン・グリーンの蘇生に成功するなど、ペティの解剖学者・医者としての名声は高く、オックスフォードにおける理学協会の集会も当初ペティの宿舎で行われた。
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