大型水力発電所の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 18:32 UTC 版)
前述の通り、長野電灯は佐久地域において1924年長倉発電所、1925年松原発電所、1926年広戸発電所という順で新発電所の運転を開始した。広戸発電所完成時点での発電力(西毛支社管内を除く)は8発電所・計6,000 kWである。また自社発電所ではないが1927年6月には南佐久郡臼田町勝間(現・佐久市勝間)に千曲川から取水する臼田発電所(出力2,400 kW)が完成した。事業者は一般供給を行わない売電専門の千曲電気という会社で、長野電灯では同年7月1日より同社からの受電を開始した。同社からの受電高は2,394 kW(1930年末時点)であった。 佐久支社管内で発電所新設が続いたのに対し長野方面の本社管内における発電所新増設はないが、信濃電気との間で1910年に締結された供給契約が1925年3月に満期を迎えた際、受電高が500 kW増の1,500 kWに引き上げられた。その前年の1924年1月には、信濃電気からの受電に関して新たな受電拠点として長野市内に芹田変電所を整備している。芹田変電所における受電高は、1930年末時点ではさらに1,000 kW増の2,500 kWとある。送電線については、1925年秋、信濃電気との間で相互に電力を融通するための設備として長野電灯側で小諸変電所(北佐久郡小諸町)の増設工事、信濃電気側で小諸変電所と大屋変電所(小県郡神川村)を繋ぐ送電線の新設工事を施工した。さらに1927年9月からは芹田・小諸両変電所間を直結する自社送電線「長野送電線」の使用を開始し、佐久支社側の発電所から本社管内への送電を始めた。 こうした自社供給用の発電所とは別に、他社売電専用の発電所も建設した。平穏(ひらお)第一発電所・平穏第二発電所・平穏第三発電所がそれである。3か所とも長野県下高井郡平穏村(現・山ノ内町平穏)に立地。第一・第二発電所は1926年12月より、第三発電所は翌1927年8月よりそれぞれ運転を開始した。信濃川水系横湯川・角間川(双方とも夜間瀬川支流)からの引水によって発電する発電所群であり、第一発電所は川からの取水で、第二発電所は第一発電所の放水を受けて発電。そして第三発電所は第二発電所の放水を調整池に一旦貯め、発電による流量の変動を下流側に及ぼさないよう調整しつつ発電する(逆調整池式発電所)。発電所出力は第一発電所が10,200 kW、第二発電所が5,000 kW、第三発電所が480 kWで、発生電力はすべて大手電力会社大同電力へと売電された。 梓川電力株式会社という傍系会社を通じた電源開発も展開した。同社は長野電灯と信濃電気が折半出資で設立した会社で、1924年12月9日、資本金300万円で長野市西町571番地に発足。小坂順造が社長、信濃電気副社長の小田切磐太郎が副社長を務める。この梓川電力は長野県西部の南安曇郡安曇村(現・松本市安曇)に信濃川水系犀川(梓川)の大正池から取水する霞沢発電所を建設し、1928年(昭和3年)12月1日より営業を開始した。霞沢発電所は最大出力31,100 kW、常時出力だけでも13,800 kWという大型水力発電所であり、長野電灯・信濃電気ともにこの電力を消化する需要を持たないため発生電力は全量東京電灯へと売電された。 平穏発電所完成後の1928年9月、長野電灯では845万円の増資を決議し、資本金を1600万円へと拡大した。翌1929年(昭和4年)6月には社長の小坂順造が濱口雄幸内閣の拓務政務次官就任のため辞任。このため同年7月より諏訪部庄左衛門が4代目となる社長に就任した。諏訪部に代わる常務取締役には花岡俊夫が就いている(湯浅三郎も続投)。花岡は1923年より支配人を務める人物で、第2代社長花岡次郎の婿養子、小坂順造の義甥にあたる。
※この「大型水力発電所の建設」の解説は、「長野電灯」の解説の一部です。
「大型水力発電所の建設」を含む「長野電灯」の記事については、「長野電灯」の概要を参照ください。
- 大型水力発電所の建設のページへのリンク