塗装について
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「Survivalcraft」の記事における「塗装について」の解説
厚板や玄武岩など塗装のできるものは、塗装をしていない物からしか作ることができない。出来上がった階段、半板ブロックも塗装は出来ない。
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塗装について
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帝国海軍において塗装は「塗粧」と呼称されていたが、本項ではより一般的な「塗装」として表記する。 十二試艦上戦闘機に関しては、M2灰緑色と呼ばれる塗料で塗装を施されたと言われており、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館に展示されているレプリカはこれに従ったものである[要出典]。制式採用時には当時の標準塗装であったP1銀色による塗装を改め、防錆のためA3赤褐色の下塗りの上に中塗りとしてM2灰緑色を2回[要出典]、その上から全面をJ3灰色で塗装し、カウリングはQ1黒色で塗装している。なお、機体内側は軽金属用特殊塗料であるE4淡青色透明という透明なブルーで塗装され、操縦席内部などの一部はその上から淡緑色で塗装[要出典][信頼性要検証] された。 後に1942年(昭和17年)10月5日より実施された「軍用機味方識別に関する海陸軍中央協定」に従い、翼前縁の内側約半分を橙色ないし黄色に塗装し、これを敵味方識別帯としている。また、協定に従って日の丸には白縁がつくようになった。 なお1942年末頃には、D1現地で暗緑色と思われる塗色による現地応急迷彩が実施されていたことが複数の写真より確認できる[要出典]。これは戦局悪化に対応し、地上撃破を防ぐための処置である。 1943年(昭和18年)2~3月頃の工場完成機では中島・三菱共に上面をD2暗緑色に塗装した機体が確認でき、以降は上面暗緑色、下面灰色が標準となっている。 また、三菱と中島では塗装の塗り分けが異なる。三菱製は胴体側面から見た時に胴体後部に灰色は殆ど見えないが、中島製は主翼後部より水平尾翼前縁をつなぐように塗り分けのラインが続く。塗料についても三菱製機体の暗緑色は青色がかっており、中島製は黄緑がかっている[信頼性要検証] 。 また、しばしば論じられる灰色の色味についてだが、この色は海軍の文書では「灰色」「灰白色」、三菱社では「灰鼠色」「鼠色」と表現される[要出典]。J3灰色は主にジンカイトとアタナーゼの白色顔料及びカーボンブラックの黒色顔料を混ぜたベンジルセルロース塗料であり、この塗料は黄変しやすい性質を持つ軽金属用特殊塗料である。 そのため、時間経過と共に黄変したものが「飴色」として誤認された経歴があり、空技報0266に見られる「現用零式艦戦用塗色J3(灰色)のわずか飴色がかりたるもの」という記載から、白色飴色[要出典]や飴色と呼ばれる色とする説も多い[誰によって?]。 E4淡青色透明に関しても同様のベンジルセルロース塗料であり、現存機でブルーがグリーンに変色している様子を確認できる[要出典]。 また、例外的に日の丸の白縁を緑色や黒色で塗りつぶしたり、個人で自機に撃墜マークなどの塗装をする者もいた。
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