報道の過熱とその被害
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「皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀」の記事における「報道の過熱とその被害」の解説
この頃(1987年12月)、小和田雅子が浩宮妃候補であることがスクープとして週刊誌やスポーツ紙などで報じられた。マスメディアは一斉に雅子の取材に走り、周囲に(日本でいう)メディアスクラムによる混乱をもたらした。雅子が出勤しようとする小和田邸前に数十人の取材陣が集まり、玄関を出たとたんにカメラのフラッシュを浴びせテレビカメラを向けた。また帰宅中の彼女を尾行して、深夜でも構わず暗がりで声をかけ恐怖を与えた。雅子はときにこういった取材に対し、怯えて家に駆け込み父親に助けを求め、あるときは彼のアドバイスを受けて毅然と対応し、記者に名刺を渡すよう要求することもあった。発端となったスクープを載せた『週刊女性』1988年1月14日新春特大号は104万部の良好な売れ行きで、報道は非常な注目を集めた。 中川はこの頃、ようやく小和田家に自分が雅子をお妃候補として推薦したことを明かした。小和田家はお妃候補を固辞し、チッソ関連の問題もあって候補からもいったん消えることになった。 1989年(昭和64年/平成元年)、浩宮の結婚問題を気にしたまま昭和天皇は崩御し、平成となった日本で浩宮は皇太子となり、東宮仮御所に暮らすようになった。 オックスフォード大学に留学した雅子は、1年ほど経って再度取材攻勢に見舞われた。当時行われた皇太子のベルギー訪問の合間に、彼が雅子と会うのではないかとマスコミが憶測したためだった。また一部の記者は、皇太子自身がまだ雅子を思い続けていることを把握していた。しかし、祖母・江頭寿々子のすすめで自分の口からはっきりと否定する決意をした彼女は、1989年9月、取材陣に対し「この件については、私はまったく関係ございませんので」と発言し、「外務省の省員としてずっと仕事をしていく」と否定し取材中止を求めた。この「完全否定」は広く報道され、母・優美子もインタビュー上で否定をした。この頃の彼女としては結婚に対する興味そのものが薄かったという。雅子はその後帰国し、外務省で北米局北米第二課に配属され、海部俊樹や竹下登、三塚博といった政府首脳の外交時の通訳を務めるなど仕事に励んだ。 それから数年、お妃選びは続いていたが、メディアスクラムは対雅子にとどまらず他の候補女性たちにも行われた。同じように彼女らを追い回して勝手に写真を撮り、苦情を言うと「絵が撮れればいいんですよ」と配慮のない態度を取られ、近隣に迷惑駐車をされるなどで、「思い出したくもない嫌な出来事」と回想する候補や娘の心に傷が残ると心配する家族もおり、実際テレビでは「関係ありません!」「迷惑です」と強く拒絶する彼女らの姿が放送された。またマスコミ被害以前に、民間のみならず旧皇族・華族の候補やその親たちであっても、自由が保障されず苦労を強いられる皇室入りに対し強い拒否反応を示す人々が少なくなかった。その上皇太子という立場では、気軽に女性と知り合う機会を増やすことが困難だった。 このような中で、候補とされた女性たちは次々に辞退し、弟である礼宮文仁親王(秋篠宮)が兄よりも先に結婚するなど、国民の間には結婚問題へのいらだちが募っていた。皇太子は彼の受けた帝王学ゆえに、自分の気持ちと同時に周囲の意見も尊重したいという考えを記者会見で述べていたが、当時の宮内庁長官・藤森昭一に対しては「やはり雅子さんでなくては」という思いをたびたび伝えていた。
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