地震発生の日付と時刻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 01:54 UTC 版)
「慶長豊後地震」の記事における「地震発生の日付と時刻」の解説
本地震の発生日は閏7月9日(9月1日)と閏7月12日(9月4日)の2説が台頭してきた。また、3説目として、閏7月9日と閏7月12日の両日(複数日)で発生したという主張もある。 閏7月9日説 大森房吉は本地震の発生を慶長元年閏7月9日(1596年9月1日)とし、田山実(1904)による『大日本地震史料』上巻では「慶長元年閏七月九日甲辰、豊後、薩摩、地大ニ震ヒ、府内近傍ハ海嘯暴溢ス」としている。『日本被害地震総覧』も閏7月9日(閏VII 9)としており、それを元にした『理科年表』「日本付近のおもな被害地震年代表」も閏7月9日としている。 9日説の根拠史料は、『由原宮年代略記』、『豊後鶴川興導寺大般若経奥書』、『柴山勘兵衛記』、『附東槎録』であり、地震発生から近い時期に成立し、豊後の事象を記述している。 他閏7月9日とする史料。『薩摩旧記後編』,『小松邑誌』,『佛通禅寺住持記』 閏7月12日説 武者金吉(1941)による『大日本地震史料 増訂』では「慶長元年閏七月十二日」と改定されており、大森を批判した今村明恒によるものと考えられ、今村・大森論争の余燼の感もある。『地震の事典』も閏7月12日としている。 12日説の根拠史料は、府内藩・岡藩・杵築藩でそれぞれ成立した史料に大別され、このうち府内藩の諸史料は何れも『豊府聞書』を祖本としている。臼杵藩の記録『稲葉家譜』も閏7月12日に地震・津波があったと記す。 他閏7月12日とする史料。『幸松古圖』,『雉城雑誌』,『府内旧記』,『豊陽古事談』,『豊府聞書』,『玄與日記』 閏7月9日を伊予地震とする説は松岡(2014)の歴史地震研究会公演要旨集、および中西・広瀬(2015)の日本地震学会講演要旨集があり、閏7月9日20時頃に伊予地震、閏7月12日16時頃に豊後地震、閏7月13日夜中0時頃に伏見地震が起ったと考えた。 総括および発生時刻 しかし12日説の根拠史料とされる岡藩領で成立した史料は何れも『柴山勘兵衛記』を祖本とし、引用する際に伏見地震の知識で理解して日付を12日に改めた可能性があり、12日の地震を支持する信頼性が高い当時史料は無いことになる。また、京都で9日と13日(12日夜)の地震記録がある『言経卿記』、『孝亮宿禰日次記』、9日から12日まで大地震とする三原市の佛通寺の記録『佛通禅寺住持記』、9日に大地震があったとする記録は松山市の『薬師寺大般若経奥書』と大分市の『由原宮年代略記』、国東市の『豊後鶴川興導寺大般若経奥書』、また「薩摩は9日、京都は12日なり」とする『薩摩旧記後編』があり、これ等の史料を総合すると、当時の時刻の精度の粗さ、および大分の9月1日の日没時刻18時40分頃を考慮すれば、閏7月9日の19時頃に伊予から豊後にまたがって被害をもたらす大地震が発生し、12日深夜(13日0時頃)に伏見地震が発生したと解釈される。すなわち豊後地震と伊予地震は同一の可能性がある。 さらに12日夕方-夜にも豊後で大地震があった可能性があり、これは九州の南部で発生した可能性もあるとされる。一方で松崎(2018)らは、閏7月9日に豊後から伊予にわたる大地震が起き、閏7月12日夕方-夜にも豊後で大地震・津波が起きた可能性を指摘している。京都大学による「別府-万年山断層帯(大分平野-由布院断層帯東部)における重点的な調査観測の成果報告書(2017)」でも、文献調査の結果「豊後国では、慶長元年閏7月9日と12日に2度地震があり、ともに被害があった」と総括している。 また、豊後地震による別府湾への津波襲来時刻は、『由原宮年代略記』の「府中洪濤起テ府中並近邊ノ邑里、悉成海底、黄昏時分也」などの記録から薄明の19時前後に襲来した可能性が高いとされる。
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