地形の観測
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 04:07 UTC 版)
19世紀はじめ、光学望遠鏡の大きさ・質の発展により観測能力が進歩した。いちばん注目されたのはドイツのヨゼフ・フォン・フラウンホーファーが発明したアクロマートであり、コマ収差を解決することができた。1812年までにフラウンホーファーは直径190mmのアクロマートの作成に成功した。アクロマートの大きさは屈折望遠鏡の集光力と解像度を決定する主の要因である[リンク切れ]。1830年、火星が衝の位置にあるとき、ドイツのヨハン・ハインリッヒ・メドラーとヴィルヘルム・ベーアはフラウンホーファーの95mm屈折望遠鏡を用いて火星の調査を始めた。彼らは目印として赤道の8º南にある特徴を選んだ。観測中に彼らは火星の地形が永久的であることを明らかにし、自転周期を正確に測定した。1840年にメドラーは火星の地図を描くために10年もの観測をまとめた。彼らは目印に名前を与えてはおらずSinus Meridianiはaといった風に文字で表した[リンク切れ]。 1858年、火星が衝の位置の際にイタリアのアンジェロ・セッキは青い三角形のような特徴に気付き、Blue Scorpionと呼んだ。この特徴は1862年にイギリスのノーマン・ロッキャーなどにも観測された。1862年の衝のとき、オランダのフレデリク・カイセルは火星を描いた。彼のイラストとホイヘンスや自然哲学者、ロバート・フックの説明を比較するとカイセルの方が火星の自転周期を精密に計算できていた。彼の出した値は24時間37分22.6秒であり、誤差は10分の1秒程度しかない[リンク切れ]。 1905年に出版されたProctorによる火星の地図 1892年ベルギーのルイ・ニーステンによって描かれた火星の地図 セッキは1863年に初の多色の地図を作った。彼は地形を区別するために有名な探検家の名前を用いた。1869年、彼は2つの暗い直線状の地形を発見し、canali(イタリア語で溝や水路などの意味)と呼んだ。1867年、イギリスのRichard A. Proctor(英語版)は1864年にウィリアム・ドーズが描いた図を利用し詳細な地図を作った。Proctorは明暗による地形(アルベド地形)を火星の観測に貢献した人物にちなみ名付けた。以後10年間ほどでカミーユ・フラマリオンやナサニエル・E・グリーンらにより同等の地図やその用語の体系が作られた。 1862年から1864年、ライプツィヒ大学でカール・フリードリッヒ・ツェルナーは月や惑星、恒星の反射率を測るために光度計を改良した。火星ではアルベドが0.27という結果が出た。1877年から1893年、ドイツのグスタフ・マラー(英語版)やポール・ケンプ(英語版)らはツェルナーの光度計を用いて火星を観測した。彼らは位相定数(英語版)が小さいことが分かり、火星の表面は滑らかで大きいでこぼこがないことが分かった。1867年にはフランスのピエール・ジャンサンとイギリスのウィリアム・ハギンズらは火星の大気を調べるために分光器を用いた。両者は火星と月の分光スペクトルを比較した。月のスペクトルには水の吸収線が現れなかったので彼らは火星の大気には水蒸気が存在するということが信じた。この結果は1872年にヘルマン・カール・フォーゲル、1875年にエドワード・マウンダーにより確認されたが後に疑問視された。 1877年、火星は近日点で衝になったため観測に好都合なときがやって来た。イギリスのデービッド・ギルはこの機会にアセンション島で火星の日周視差を測定し、8.78 ± 0.01秒と推定した。この結果を用いて火星と地球の軌道の相対的な大きさに基づき地球から太陽の距離を正確に求められるようになった。彼は火星の大気のせいで端がぼやけて見えるのに気付き、そのせいで正確な惑星の位置を得られないと分かった。 1877年8月、アメリカのアサフ・ホールは二つの火星の衛星をアメリカ海軍天文台で660mm望遠鏡を用いて発見した。二つの衛星の名前、フォボスとダイモスはイギリスにあるイートン・カレッジの理科教師、Henry George Madan(英語版)の提案でホールが選んだ。
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