地位・定員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:17 UTC 版)
現行制度における番付の地位・定員一覧地位定員関取幕内横綱不定(不在でもよい) 42名 大関不定(下限2名) 関脇不定(下限2名) 小結不定(下限2名) 前頭不定 十両28名 力士養成員幕下120名 三段目180名 序二段不定 序ノ口不定 番付外不定 番付の各地位の定員・人数の変遷 幕内・十両は1888年の十両創設以降、幕下・三段目は第二次世界大戦終戦以降を記す。 定員は付出・十両以下の張出・番付外を除く。また定員が定まっている中での例外的な変動等は省いている。 はっきりした定員が定まっており、かつ以前と変わったところは太字で示す。 場所幕内(横綱 - 前頭計)十両幕下三段目1888.1毎場所変動(28 - 49人、1907年までは40人以下) 東西10枚20人 1912.1毎場所変動(40 - 49人) 東西15枚30人 1926.540人と42人の場所あり 毎場所変動(20 - 25人) 1929.540人 東西11枚22人 1932.2毎場所変動(1932年2月、春秋園事件の影響で一旦20人に減少した後また増える。1941 - 1958年は大半の場所で50人台) 毎場所変動(1932年2月は20人、1938 - 1951年は大半の場所で30 - 32人、その後漸次増加、1958年には史上最多の東西24枚48人) 毎場所変動(終戦後しばらくは人数が少なく戦後最少は1949年1月の51人、その後漸次増加傾向) 毎場所変動(終戦後しばらくは人数が少なく戦後最少は1948年5月・10月の43人、その後漸次増加傾向) 1961.3(1960年7月より)41人 東西18枚36人 毎場所変動(170人台 - 190人) 毎場所変動(最多は1961年11月の239人) 1962.341人 東西18枚36人 毎場所変動(190人台前後) 毎場所変動(190人台前後) 1964.140人 東西18枚36人 毎場所変動(190人台前後、最多は1966年1月場所の203人) 毎場所変動(190人台前後) 1967.534人 東西13枚26人 東西60枚120人 東西100枚200人(1970年3月より徐々に減らす) 1970.934人 東西13枚26人 東西60枚120人 東西80枚160人 1972.1毎場所変動(35 - 37人) 東西13枚26人 東西60枚120人 東西80枚160人 1973.936人 東西13枚26人 東西60枚120人 東西80枚160人 1976.536人 東西13枚26人 東西60枚120人 東西90枚180人 1979.7毎場所変動(35 - 38人) 東西13枚26人 東西60枚120人 東西90枚180人 1984.138人 東西13枚26人 東西60枚120人 東西100枚200人 1991.140人 東西13枚26人 東西60枚120人 東西100枚200人 2004.142人 東西14枚28人 東西60枚120人 東西100枚200人 2022.542人 東西14枚28人 東西60枚120人 東西90枚180人 序二段と序ノ口については現在のみならず過去も含め定員が定められたことはなく、これらの地位の人数は毎場所変動するため、上の表には示していないが、序二段と序ノ口の人数について特筆性のあることを以下に示す。序二段:終戦後しばらくは人数が少なく、戦後の最少人数は終戦後初の1945年11月場所における39人(東18枚・西21枚)である。その後漸次増加傾向となり、1990年代前半は新弟子が激増したために200枚を超えることもあり、史上最多枚数は1994年(平成6年)5月場所における210枚(延べ420人)であるが、それをピークに漸次減少傾向となった。平成以降の最少枚数は2014年(平成26年)3月場所における89枚(延べ178人)である。 序ノ口:終戦直後は極端な新弟子不足で、1945年11月場所と1946年11月場所は序ノ口に力士が1人も在位していなかった。新弟子が激増した1990年代前期から中期にかけては東西70枚以上ある場所もあった。史上最多枚数は1992年5月場所における77枚(77枚目は東のみ・延べ153人)である。平成以降の最少枚数は2013年(平成25年)3月場所における14枚(14枚目は東のみ・延べ27人)である。
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