圓説和尚の終焉とは? わかりやすく解説

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圓説和尚の終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 02:41 UTC 版)

圓説」の記事における「圓説和尚の終焉」の解説

宝暦九年(1759年己卯八月三日病に遭い吉祥して寂す。(四十六歳)宝暦九年秋七月頃に病にかかり、自らの死期悟り一心に念佛修す同年八月一日後時を弟子託し八月三日の夜九時頭北面西臥せ僧伽梨頂戴し励聲念佛を百遍行ったその時虚空指し示し、「南無極楽世界阿弥陀佛南無観世音菩薩蓮台蓮台南無勢至菩薩善哉善哉」と合掌高聲し、唱え終わり寂した。壽四十六、法臘三十五。隣邑の人が、紫雲屋上覆っているのを見て圓説臨終知ったという。紫雲云々名僧高僧逸話によく出てくる話であるが、其れだけ名を残す和尚であったと言うことである。その事は『続日本高僧伝第十』の城州法傳寺沙門圓説傳に記されている。 不退和尚許されるのは五十回忌あたる文化五年(1808年)の事である。大坂北野宗金寺そうごんじ)は圓説和尚亡き後江戸時代には一時超泉寺末寺となっていた。文化十一年(1814年)に宗金寺住職の五世賢蓮社皆譽 徳阿頑愚圓説上人座像造ったことを書き記した不退上人縁起』の文中にに佛光の山とあるので寺は存続されていた。宗金寺門下圓説和尚意に反して公儀本山知恩院詫び入れて赦免得て上で寺を存続させていたが、幕府倒壊先の赦免重荷になってくる、明治維新廃仏毀釈などの影響で寺の維持危うくなる宗金寺門下維新後にはこの逆に天皇家対す圓説和尚顕彰行為引合いに寺の存続のため走り回っているのが哀れでもある。明治・大正年間大坂北野地図宗金寺存在しているのが見える。その後宗金寺衰退して超泉寺末寺となっていたが圓説和尚功績から山号不退山・木院を名乗っていたという事大阪北野寺院歴史にその名が残っていたが残念なことには先の戦争大阪大空襲で町そのもの焼失してしまい、宗金寺あったかどうかさえ判らず、圓説和尚足跡記録什器類が全て失われた事である。超泉寺戦争焼失し寝屋川移転したそうだが現存していない。宗金寺残されであろう紫服紫紋幕もまた灰と帰したであろう

※この「圓説和尚の終焉」の解説は、「圓説」の解説の一部です。
「圓説和尚の終焉」を含む「圓説」の記事については、「圓説」の概要を参照ください。

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