圓説和尚の終焉
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宝暦九年(1759年)己卯八月三日病に遭い吉祥して寂す。(四十六歳)宝暦九年秋七月頃に病にかかり、自らの死期を悟り、一心に念佛を修す。同年八月一日後時を弟子に託し、八月三日の夜九時頃頭北面西に臥せ、僧伽梨を頂戴し励聲念佛を百遍行った。その時虚空を指し示し、「南無極楽世界阿弥陀佛。南無観世音菩薩。蓮台蓮台。南無勢至菩薩。善哉善哉」と合掌高聲し、唱え終わりて寂した。壽四十六、法臘三十五。隣邑の人が、紫雲が屋上を覆っているのを見て、圓説の臨終を知ったという。紫雲云々は名僧・高僧の逸話によく出てくる話であるが、其れだけ名を残す和尚であったと言うことである。その事は『続日本高僧伝 巻第十』の城州法傳寺沙門圓説傳に記されている。 不退和尚が許されるのは五十回忌あたる文化五年(1808年)の事である。大坂北野宗金寺(そうごんじ)は圓説和尚亡き後、江戸時代には一時超泉寺の末寺となっていた。文化十一年(1814年)に宗金寺住職の五世賢蓮社皆譽 徳阿頑愚が圓説上人の座像を造ったことを書き記した『不退上人像縁起』の文中にに佛光の山とあるので寺は存続されていた。宗金寺門下も圓説和尚の意に反しての公儀や本山知恩院に詫びを入れて赦免を得て上で寺を存続させていたが、幕府倒壊で先の赦免が重荷になってくる、明治維新の廃仏毀釈などの影響で寺の維持が危うくなると宗金寺門下も維新後にはこの逆に、天皇家に対する圓説和尚の顕彰行為を引合いに寺の存続のため走り回っているのが哀れでもある。明治・大正年間の大坂の北野の地図に宗金寺が存在しているのが見える。その後、宗金寺は衰退して超泉寺の末寺となっていたが圓説和尚の功績から山号を不退山・木魚院を名乗っていたという事が大阪の北野の寺院歴史にその名が残っていたが残念なことには先の戦争の大阪大空襲で町そのものが焼失してしまい、宗金寺があったかどうかさえ判らず、圓説和尚の足跡や記録や什器類が全て失われた事である。超泉寺も戦争で焼失し寝屋川に移転したそうだが現存していない。宗金寺に残されたであろう紫服・紫紋幕もまた灰と帰したのであろう。
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