園芸再開 → 観光地化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 05:44 UTC 版)
「花見山公園」の記事における「園芸再開 → 観光地化」の解説
1945年(昭和20年)8月15日の終戦により、阿部家は開墾と花木栽培を再開した。1947年(昭和22年)、信夫郡渡利村は福島市に編入合併された。 1950年代後半になると開花期には山が一面の花で埋まるようになり、観光客が集まり始めた。花卉栽培の作業をしながら観光客の相手までする余裕が無かったこともあるが、戦場で多数の悲惨な死を見てきた阿部家の主は戦争で苦しんだ人たちを元気付けたいとの思いもあり、「花見山公園」と名づけて1959年(昭和34年)4月に無料開放した(1961年に「レジャー」が流行語になり、「レジャーブーム」になった)。また、観光客のために500万円かけてトイレを設置し、東屋・展望台・灯篭などの施設も自己資金で建設、観光客に無料で貸し出す杖や傘も揃えていった。 1975年(昭和50年)頃、自身が審査員を務めた写真賞の出品作品で当園を知った写真家・秋山庄太郎が初めて当園を訪れた。秋山は、山形県米沢市の別荘と東京都との間にある当園に度々訪れるようになり、「福島に桃源郷あり」と形容して展覧会や講演会で当園を紹介し、当園の全国的な知名度向上に寄与した。 その一方、花見シーズンに入ると観光客やカメラマンが多く集まり、道幅が狭い地区内および周辺は渋滞に悩まされるようになった。そのため地区の住民らが周辺維持管理委員会を設立し、渋滞対策をしてきた。また、1996年(平成8年)より建設省(現・国土交通省)の補助事業「ウォーキング・トレイル事業」が始まり、当園周辺では遊歩道などの整備による歩車分離が進められた。2004年(平成16年)には当園のシーズン入園者数が20万人を突破したため、同委員会・福島市観光協会・福島市物産振興協会によって「花見山環境整備協議会」が設立され、観光や地域振興の環境整備にあたるようになり、2006年(平成18年)12月から花見山公園周辺環境整備事業が始まった。 2007年(平成19年)、福島市の市制100周年を記念して「ふくしま市景観100選」が選定され、「1.花見山から見た吾妻連峰」、「12.花見山から見た信夫山と市街地」、「17.花見山の色とりどりの花木」と、当園一帯は100選中3つの景観で選ばれた。2010年(平成22年)には過去最高となる32万人が来園し、外国人観光客の団体も見られるようになった。
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