和紙への利用史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 00:00 UTC 版)
ミツマタが中国から和紙の原料として日本へ渡来したのは、慶長年間(1596年 - 1615年)とされ、和紙の原料として登場するのは、16世紀(戦国時代)になってからであるとするのが一般的である。しかし、『万葉集』にも度々登場する良く知られたミツマタが、和紙の原料として使われなかったはずがないという説[誰によって?]がある。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}平安時代の貴族たちに詠草(えいそう)料紙として愛用された斐紙(雁皮紙、美紙ともいう)の原料である雁皮(ガンピ)も、ミツマタと同じジンチョウゲ科に属する。古い時代には、植物の明確な識別が曖昧で混同することも多かったために、雁皮紙だけでなく、ミツマタを原料とした紙も斐紙(ひし)と総称されて、近世まで文献に紙の原料としてのミツマタという名がなかった。後に植物の知識も増え、製紙技術の高度化により、ガンピとミツマタを識別するようになったとも考えられる[独自研究?]。 「みつまた」が紙の原料として表れる最初の文献は、徳川家康がまだ将軍になる前の慶長3年(1598年)に、伊豆修善寺にいた製紙工の文左右衛門にミツマタの使用を許可した黒印状である。当時は公用の紙を漉くための原料植物の伐採は、特定の許可を得たもの以外は禁じられていた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}豆州ニテハ 鳥子草、カンヒ ミツマタハ 何方ニ候トモ 修善寺文左右衛門 ヨリ外ニハ切ルヘカラス(伊豆においては、鳥子草、ガンピ、ミツマタは、どこにあっても修善寺文左右衛門以外は切ってはならない) とある。「カンヒ」は、ガンピのことで、「鳥子草」が何であるかは不明であるが、ミツマタの使用が許可されている。 天保7年(1836年)稿の大蔵永常『紙漉必要』には、ミツマタについて「常陸、駿河、甲斐の辺りにて専ら作りて漉き出せり」とある。武蔵の中野島付近で漉いた和唐紙は、このミツマタが主原料であった。佐藤信淵の『草木六部畊種法』には、 三又木の皮は 性の弱きものなるを以て 其の紙の下品なるを なんともすること無し として、コウゾ(楮)と混合して用いることを勧めている。 明治になって、政府はガンピを使い紙幣を作ることを試みた。ガンピの栽培が困難であるため、栽培が容易なミツマタを原料として研究。明治12年(1879年)、大蔵省印刷局(現・国立印刷局)抄紙部で苛性ソーダ煮熟法を活用することで、日本の紙幣に使用されるようになっている。国立印刷局に納める「局納みつまた」は、2005年の時点で島根県、岡山県、高知県、徳島県、愛媛県、山口県の6県が生産契約を結んで生産されており、納入価格は山口県を除く5県が毎年輪番で印刷局長と交渉をして決定された。しかし、生産地の過疎化や農家の高齢化、後継者不足により、2005年度以降は生産量が激減し、2016年の時点で使用量の約9割はネパールや中国から輸入されたものであった。国内では岡山県、徳島県、島根県の3県だけで生産されており、出荷もこの3県の農協に限定された。 生産農家の減少などで、ミツマタの価格は2018年に30キログラムあたり9万5400円と過去最高水準まで上昇した(国立印刷局による)。2024年度の新紙幣発行を視野に、耕作放棄地など徳島県山間部でミツマタを新たに栽培する動きもある。ミツマタは栽培植物の中では鹿による食害が比較的少ないという。
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