周辺の開発と戦火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:59 UTC 版)
球場完成後も周辺の開発が進められ、遊園地、動物園、水族館などを内包する「甲子園娯楽場(後の甲子園阪神パーク)」を始め、総合競技場の「甲子園南運動場」、「甲子園庭球場」「甲子園国際庭球場」などのテニスコート、競技用プールの「甲子園水上競技場」などが設けられた。鳴尾競馬場とゴルフ場(現・鳴尾GCコース)を含めたこの一帯は阪神間モダニズムを代表する一大レジャーゾーンとなった。 球場も改良が進められ、開場以来土のままだった外野に芝が張られた他、1929年にアルプススタンド、1936年に外野スタンドが相次いで増築され公称収容人数は7万人となった。スタンド増築の際にフェアグラウンドの形状が変更され現在に近い形になりほぼ野球専用となったが、それでも当時の日本の野球場としては広大であり、「小柄で非力」という日本人選手の特性やボールの品質の低さなども相まって本塁打が極端に出にくいことで知られていた。なお、この時期に甲子園大運動場から「甲子園球場」に名称が変更された可能性が高いが、詳細は不明である。また、1935年には所有者の阪神電鉄によって大阪野球倶楽部(球団名大阪タイガース、現・阪神タイガース)が設立され、甲子園球場を活動拠点とした。ただし、フランチャイズ制度が導入される以前は「ホーム/ビジターゲーム」や「本拠地」などといった概念は希薄であり、阪急西宮球場や後楽園球場とともに各球団が使用していた。 その後、太平洋戦争の激化に伴い、大日本学徒体育振興大会(「幻の甲子園」)を最後に中等学校野球が、1945年1月の正月大会(非公式大会)を最後にプロ野球がそれぞれ中断、戦中における球場の使用を終えた。球場や周辺施設は軍が接収し、グラウンドのうち内野は芋畑、外野は軍のトラック駐車場、スタンドはバックネットから三塁内野席あたりまでは日本造機工場、一塁側あたりは普通海兵養成所、三塁側アルプスあたりは対潜音響研究所、一塁側アルプスあたりは川西航空機倉庫と陸軍輸送隊、レフトスタンドは興亜ベアリング工場、ライトスタンドは阪神青年学校として利用されることになった。また鉄傘も金属類回収令のために供出を余儀なくされている。周りの施設も川西航空機の工場や鳴尾飛行場などに転用された。1945年8月には空襲を受けている。また機銃掃射による攻撃も幾度か受けており、弾痕が残った鉄扉が2007年に撤去されるまで長らく関係者入り口にあった(戦後の米軍接収時の試し撃ち跡ともいわれている。現在は甲子園歴史館に展示)。
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