周りの反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 05:59 UTC 版)
「ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦」の記事における「周りの反応」の解説
大陸軍、ひいては革命そのものの将来性は風前の灯になった。トマス・ペインは著書『アメリカの危機』の中で「これは人々の心を試す時だ」と記していた。ワシントン軍の中で任務遂行に適した者の数は5,000名以下に萎み、その年の暮れに徴兵期間が過ぎた後はさらに減ずることになっていた。気力は低下し、民衆の支持は動揺し、大陸会議はイギリス軍からの攻撃を恐れてフィラデルフィアを放棄した。ワシントンは失敗したカナダ侵攻作戦から戻った部隊の幾つかに自隊と合流するよう命令し、またニューヨーク市の北部に残していたリー将軍の部隊にも合流するよう命令した。リーは当時ワシントンとの関係が難しくなっており、口実を作ってニュージャージーのモリスタウンまで移動しただけだった。リーがその部隊から離れていた12月12日、ロイヤリストの裏切りにあって、バナスター・タールトン中佐の率いるイギリス軍中隊にその泊まっていた宿屋を取り囲まれ、捕虜になった。リーの部隊の指揮はジョン・サリバンが引き継ぎ、トレントンから川を渡ってワシントンの宿営地に合流した。 リーを捕獲したことはハウにとって問題のある捕虜を抱えたことになった。大陸軍の多くの指揮官達と同様、リーは以前にイギリス軍に仕えていた。このためにハウは当初リーを脱走者として扱ったが、これは軍隊の制裁を課する恐れがあった。しかしワシントンが調停して、リーを捕虜として扱うようにした。リーの待遇は良くなり、イギリス軍の指揮官に如何にしてこの戦争に勝つかを助言することもあった。大陸軍にはリーに匹敵する高官の捕虜がいなかったので、リーは1778年までニューヨーク市に捕虜として留め置かれ、その後にリチャード・プレスコットと捕虜交換になった。 大陸軍がニューヨーク市を守れなかったためにロイヤリストの活動が活発になった。イギリス軍は植民地民兵の連隊を作るためにニューヨークやニュージャージーで積極的に徴兵を行い、幾らかは成功した。地域のロイヤリストは大陸軍の兵士が徴兵期間を過ぎて故郷に戻ってきたのを見て動機付けられた可能性がある。あるニューヨークのパトリオット民兵指揮官は、部下の30名が彼と共に大陸軍に再入隊するのではなく、敵の部隊に入るための署名を行ったと記していた。11月30日、ハウ提督は英国王室に反抗して武器を取った者でも、英国王室に対する忠誠を誓えば恩赦を与えるという声明を出した。これに対しワシントンは、そのような誓言を拒否しなかった者は即座にイギリス軍前線の背後に行くべきだということを示唆する宣言を発した。その結果、ニュージャージーは内戦状態となり、戦争の残り期間、民兵の活動と共にスパイや逆スパイの活動が続くことになった。 ニューヨークを占領したという知らせはロンドンで好意的に迎えられ、ハウ将軍はその功績に対してバス勲章を与えられた。さらにケベックが回復したという知らせもあり、イギリス指導者層にはこの戦争が1年かそこらで終わるものと考えさせる状況にあった。ハウ提督が恩赦を与えるという声明を出したという知らせは、その条件が政府の強硬派が予測していたよりも寛大だったので、幾らかの驚きをもって迎えられた。戦争に反対していた政治家は、この宣言が議会判断の優先に言及していないことを指摘した。さらにハウ兄弟は、彼らが行った様々な和平努力について議会に報告していなかったことを責められた。
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