吉野軽便鉄道の開通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 20:47 UTC 版)
その後、大淀村では1908年(明治41年)に森栄蔵らが南葛城郡葛城村から下市街道(車坂峠越)・伊勢街道を利用し北六田にいたる馬車鉄道「吉野馬車軌道」を計画し出願した。1910年(明治43年)に軽便鉄道法が公布されると、馬車鉄道から軽便鉄道に変更し会社設立を許可される。これが吉野軽便鉄道の源流となる(発起人は森ら12名。資本金は20万円)。だが、前例の吉野鉄道のこともあって株式の払い込みは進まなかった。これを危惧した吉野郡長、谷原岸松が、材木業組合役員や沿線の首長を説得し、発起人も入れかえ阪本仙次(この時は、吉野材木銀行の頭取)を発起人総代に迎えた。また株式の払い込みも郡長以下、郡役所職員の努力もあって増配した資本金30万円の予定を超える。1911年(明治44年)、発起人一同は自信を深め、改めて会社を設立、同年末時点の資本金は52万円にも達した。12年前の土倉らによる吉野鉄道の計画買収用地を利用して鉄道建設が進められた。 当時の列車ダイヤ吉野口発吉野着7:27 8:00 9:43 10:16 10:55 11:28 12:00 12:33 13:56 14:23 15:34 16:08 17:51 18:24 20:13 20:46 吉野発吉野口着5:45 6:17 7:40 8:12 9:55 10:27 11:10 11:48 12:40 13:13 14:05 14:36 15:45 16:18 18:03 18:35 吉野軽便鉄道は標高200m前後の地域を走る山岳路線で屈曲する路線やトンネルなど難所が多いものの工事は順調に進み、翌1912年(大正元年)10月15日に完成、国鉄吉野口駅を起点として薬水トンネルを抜け下渕の下市口駅に達し、そこから吉野川北岸を東進して北六田の吉野駅を終着点とする3駅11.6kmの路線が開通した。 吉野駅は軽便鉄道の駅としては奈良県内第一の規模をもっていた。広い構内、機関車庫、多くの側線、長いプラットホームなど終着駅にふさわしい駅で、2004年現在でも近鉄六田駅構内の車庫などにその名残を認めることができる。国鉄と同じ1,067mmのゲージ(狭軌)は木材を積んだ貨車がそのまま国鉄路線に乗り入れできる利点があり、また旅客輸送の面でも吉野山の桜の時期には関西線の湊町駅(後のJR難波駅)から「吉野行観桜列車」を仕立てて、湊町 - 王寺 - 高田 - 吉野口 - 吉野という経路で花見客の便を図ることもできた。 右表は開通から1915年(大正4年)頃までの列車ダイヤ(8往復)である。本店は最初は大淀村下渕、ついで北六田、その後に上市町に移した。1913年(大正2年)当時の運賃は吉野 - 下市口間が3等7銭、2等11銭。吉野 - 吉野口間が3等19銭、2等29銭であった。
※この「吉野軽便鉄道の開通」の解説は、「吉野鉄道」の解説の一部です。
「吉野軽便鉄道の開通」を含む「吉野鉄道」の記事については、「吉野鉄道」の概要を参照ください。
- 吉野軽便鉄道の開通のページへのリンク