吉野鉄道の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 20:47 UTC 版)
以降の歴史については、「近鉄吉野線#歴史」も参照 1913年(大正2年)5月には吉野軽便鉄道から吉野鉄道と名称を改め、次の目標である線路の延長と電化へと進んでいく。 まず取り組んだのは、吉野口駅から高市郡方面に延伸し国鉄桜井線畝傍駅へ直結すること。それと同時に輸送能力を高めるための電化が必要条件として運動し1920年(大正9年)5月20日に免許を取得すると、1923年(大正12年)12月5日に吉野口 - 橿原神宮前間、1924年(大正13年)11月1日には橿原神宮前 - 畝傍間、あわせて12.8kmが開通した。駅は畝傍駅から小房 - 畝火山 - 橿原神宮前 - 岡寺 - 壺阪山 - 市尾 - 葛 - 吉野口 - 薬水 - 福神 - 下市口 - 吉野の順である。岡寺駅に32両収容できる車両基地を設け、貨物輸送のために奈良県下で最初の電気機関車も導入した。 電化以前に比べ列車運行は激増、1926年(大正15年)8月の時刻表では1日29往復、吉野 - 畝傍間を1時間足らずで結び運賃は65銭であった。 吉野鉄道の次の課題は桜の吉野山までの延伸である。吉野登山電気軌道という会社が1921年(大正10年)に吉野駅のある北六田対岸の吉野村六田から吉野山への軌道施設を計画し認可を受けていたものを1924年(大正13年)7月5日に譲り受け、吉野鉄道が1922年(大正11年)4月20日に上市町までの敷設免許を受けたのと合わせて、北六田から上市へ延伸し吉野川橋梁で吉野川を渡り吉野山下千本を終点とする4.4kmの路線を敷設することになった。工事が完成し営業を開始したのは1928年(昭和3年)3月25日である。これにより吉野鉄道は開業から17年目に終着駅である吉野駅までの全線が開通し28.6kmの鉄道となった。同時に旧・吉野駅は六田駅と改称し大和上市駅、吉野神宮駅が設置された。なお1927年(昭和2年)には越部駅、1929年(昭和4年)には橘寺駅(後の飛鳥駅)、大阿太駅が新設されている。 また、吉野鉄道終点の吉野駅から吉野山へは1929年(昭和4年)3月12日に千本口・吉野山間を結ぶ吉野ロープウェイが営業を開始している。このロープウェイは地元有志により設立された吉野大峯ケーブル自動車によるもので、吉野鉄道との資本関係はない。
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