史実の高俅とは? わかりやすく解説

史実の高俅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 10:22 UTC 版)

高俅」の記事における「史実の高俅」の解説

徽宗治世下で殿帥府太尉勤めた。『宋史によれば父の名は高敦復で、数人兄弟と4人の息子がいた。正確な兄弟順は不明だが、高俅兄弟に高傑と高伸がおり、兄弟全員の名前に人偏がついていたという(輩行字)。『水滸伝』では太尉上り詰めた際に「高二」(高毬)から「高俅」へ改名したとされているが、史実では元々高俅本名であった。 『宋史』及び『揮塵後録』などの野史によると、『水滸伝』に描かれるように生来放蕩無頼の気質があり、様々な有力者の間を食客として転々としていた。英宗女婿王詵食客になっていた際、当時端王だった趙佶(後の徽宗)に使いし、蹴鞠の才を披露して気に入られ側に仕えようになった趙佶即位後、資格なくとも勤まる武官として宮中昇り以降とんとん拍子に出世して殿帥府太尉まで上り詰めた。 『十朝綱要』(崇寧4年5月丁未条)によれば1105年徽宗が遼へ使者送った時、客省使であった高俅副使任じられている。当時宰相であった蔡京正使攄へ遼を挑発するよう秘かに命じて、遼から戦争仕掛けさせようとしたとされている。この時、高俅何処まで関与したかは不明だが、攄は蔡京指示通りに遼の天祚帝高圧的な言辞述べたため、宋と遼は開戦寸前状況陥った事情知って激怒した徽宗蔡京一時罷免している。 高俅禁軍最高指揮官である童貫結託して軍政握り軍費着服し兵士私用使い自宅改修工事など使い、さらに他の高官有力者私用のためにも兵を出向させたため、禁軍弱体化招いたとされる。『宋史』によると、1125年に金の太宗開封陥落させ、徽宗欽宗父子とその一門捕らえて厳寒地東北にある五国城(黒竜江省北部)に強制移住させた。高俅その頃病に倒れ翌年夏に自邸逝去しとされる死後、既に処罰されていた蔡京童貫らと同様、官職全て剥奪され、また開封陥落した際は一族官職及び家財没収された。高宗高俅不遇のうちに死んだのを哀れみ宮中追悼式行おうとしたが、大臣若水が「高俅国家滅ぼした佞臣であり、追悼などとんでもないことであります」と反対したため追悼行事行われなかった(盛巽昌『水滸伝証本』)。 『水滸伝』で高俅とともに姦臣として語られる蔡京童貫比べ史実では功績悪行双方の面で大きく劣り当時奸臣代表として論われた呼称六賊」には入っておらず、個別列伝はおろか宋史姦臣佞幸両伝にもその伝立てられていない現代中国学者・盛巽昌は、『宋史』があまりにもずさんなので、高俅列伝立てることが出来なかったのだろうとしている。また、水滸伝』に描かれるようなまったくの忘恩不義の徒というわけでなかったらしいことを伝え記録もある。新法派蔡京権勢下、蘇軾一族旧法派であったために官職にも就け世間から冷遇されていたが、高俅だけはかつて蘇軾の下で書記務めていた恩義から、その一族への援助生涯怠らなかったという。以上の記述から史実の高俅は、良くも悪くも遊侠の徒としての性格が強い人物であった事が伺える。

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