反響の無さ――焦燥
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同人間の合評で「檸檬」の評判はあまり好くなかったが、第三高等学校時代の音楽仲間で帝大法学部フランス法の小山田嘉一は、同科で三高出身の北川冬彦に「これはすごいんだ」と推奨していた。稲森宗太郎は健康上の理由もあり、短歌に専念するために創刊号のみで同人を抜けた。 1925年(大正14年)1月末、大雪が止んだ後、床屋に行き散髪するが釜が割れてよく濯いでもらえず、基次郎は石鹸の泡をつけたまま歩いて古書店を回った。銀座でフランスパンを買うが、その散歩中に神経衰弱のような気分で苛立ち、有楽町のプラットホームからガード下の通りに向って小便をかけた(この日のことはのちに「泥濘」に書かれる)。 1925年(大正14年)2月、同人の集会(3号の原稿持ち寄り会)で、印刷の誤植の多い岐阜刑務所作業部から、高額でも東京麻布区六本木町の印刷所・秀巧舎に変更することに決定した。中旬には、「城のある町にて」を掲載した『青空』第2号が発行されたが、この小説もほとんど評価されなかった。基次郎は第3号には作品を投稿せず、稲森宗太郎の代わりに入れた千賀太郎は第3号のみで抜けた。 3月中旬、帝大文学部仏文科に進学する淀野隆三と、法学部に進む浅沼喜実(のちに筆名・湖山貢)が上京し、『青空』同人に加入することになった。基次郎は淀野を通じて、陸軍士官学校中退後に三高に入った1歳上の三好達治と知り合った。春休みも小説創作が進まず苦労していた基次郎は、先月から、「瀬山の話」を元に「雪の日」か「汽車その他――瀬山の話」をまとめ直そうとしていたと推定されている。 4月、麹町区富士見町(現・千代田区)の小山田嘉一(帝大卒業後、住友銀行東京支店に就職)の家で、「檸檬」を褒めていた北川冬彦と再会した。北川は法学部から文学部仏文科に再入学して父親から勘当されたが、詩誌『亜』の同人で、前年の1924年(大正13年)1月に詩集『三半規管喪失』を刊行し、横光利一に認められる詩人となっていた。基次郎は北川を『青空』に誘うが、同人にはまだ加入しなかった。この月、実家の地番が市域に編入されて、住吉区阿倍野町99番地(現・阿倍野区王子町2丁目14番地12号)に変わった。 5月、銀座で絵画展覧会を観たり、「カフェー・ライオン」でビフテキを食べるなど贅沢をするが倦怠感は晴れず、島崎藤村の『春を待ちつゝ』を読み、机の位置を変えたりした。この頃、「泥濘」執筆に取りかかったと推定されている。月末に麻布区飯倉片町32番地(現・港区麻布台3丁目4番21号)の堀口庄之助方に下宿を変えた。家主の堀口庄之助は石積みの名人と言われた植木職人で目黒区祐天寺に居て、植木職を継いだ養子・繁蔵と津子の若夫婦が階下に住んでいた。
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