反響と閉館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 01:20 UTC 版)
1964年の開館とともに長岡現代美術館賞が創設され、これを機に現代美術作品も数多く収集されている。3年後の1967年時点でも現代美術を扱う展示施設は長岡現代美術館を除くと少なく、具体美術協会による大阪市・中之島のグタイピナコテカ(1961年開館-1970年取壊)と、岡山県倉敷市の大原美術館新館(1962年開館)の一部のみだった。1969年7月から9月には、ウンベルト・ボッチョーニとアンドリュー・ワイエスというまったく性格の異なる2人の画家の2人展を行った。展示室の片方の壁にはボッチョーニの「人物とテーブル」を、もう片方の壁にはワイエスの「薄氷」を架け、展示室の白い壁面にたった2枚の絵画のみを展示するという奇抜な特別展だった。美術評論家の本間正義は「美術館勤めでかなり長い展覧会屋としての、私のこれまでの経験の中でも、こんな例は見当たらない」と語り、入場客を度外視した展示であるとした。 日本初の現代美術館の開館は各地に反響を呼んだ。横浜市の飛鳥田一雄市長は横浜市立の現代美術館を建設する構想を示し、足利市や新潟市などで現代美術館開館の機運が高まり、札幌市や山形市などの美術館建設の動きにも影響を与えた。足利市には1994年に足利市立美術館が開館したが、収集作品は近現代美術に限定していない。横浜市長の飛鳥田が模索した美術館は1989年に横浜美術館として実現している。 長岡現代美術館賞は1968年まで毎年開催されたが、1969年からは休止となった。1978年には大光銀行の乱脈融資が表面化し、1979年には長岡現代美術館自体が閉館。「大光コレクション」の大部分は各地の美術館に売却された。
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