即位とその否定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:00 UTC 版)
元弘元年(1331年)8月、倒幕の企てが発覚した後醍醐は南山城の笠置山に立て籠もる(元弘の乱)。9月18日幕府の使者が関東申次西園寺公宗に皇太子量仁親王の践祚を申し入れ、9月20日、後鳥羽院を先例とし、後伏見上皇の詔によって19歳の光厳天皇が土御門東洞院殿で践祚した。父の後伏見院は院政を開始し、皇太子には病死した大覚寺統邦良親王の皇子康仁親王が立てられる。 後醍醐は10月6日に廃され、光厳天皇に剣璽を渡した。この際、文治の例に基づき四条隆蔭・三条実継・冷泉定親の3人に剣璽の検知をさせ、宝剣の石突が落ち神璽の触穢や筥の縅緒が切れるなどの神器の破損が判明したが「(神器が少し破損している以外)其の体相違無く、更に破損無し」との回答を得る。10月8日、西園寺公宗が後醍醐天皇の本人確認を行った。その際後醍醐は公宗に一連のことは「天魔の所為」であるから寛大な措置で許してくれるよう幕府への取り次ぎを訴えた。このことについて花園は「歎息すべきことなり」と所感を記す。10月13日、光厳天皇は二条富小路内裏に遷幸した。なお、土御門東洞院殿は光厳天皇践祚の場であり、凡そ光厳天皇里内裏はこの二条富小路殿である。10月25日、再び幕府の使者が上洛。後醍醐天皇らの処分について「聖断たるべき(後醍醐天皇以下の処分は後伏見上皇のご判断によるべき)」旨を後伏見上皇に申し入れるが、後伏見は「関東の計らひたるべき(幕府が決定するべき)」旨を伝え、後醍醐天皇は翌年隠岐に流された。 元弘2年、通常通り華やかな正月行事が行われ、3月22日、即位礼を挙行する。5月には皇室伝来の琵琶である玄象・牧馬を弾き、密かに広義門院が聴きに来たという。改元し正慶元年11月13日に大嘗祭を挙行。後伏見と花園は同車して見物し、無事に終了した。花園は「天下の大慶、一流の安堵なり」と寿ぐ。 元弘3年(1333年)5月、後醍醐の綸旨に応じた足利高氏(尊氏)の軍が京都の六波羅探題を襲撃、北条仲時・北条時益の両探題は光厳・後伏見・花園・康仁親王を連れて東国に逃れた。しかし道中で野伏に襲われ時益は討死にし、近江国番場宿(滋賀県米原市)でも佐々木導誉が差し向けたとも言われる野伏に進路を阻まれて仲時と一族432人が天皇らの前で自決。光厳は両上皇とともに捕らえられて、三種の神器や累代の御物を没収された。5月28日、網代輿に乗って持明院殿に帰宅。増鏡によれば、最後まで供奉した者の中には光厳の乳父である日野資名、後に光厳院を支える勧修寺経顕、四条隆蔭などがいた。なお『太平記』では六波羅からの逃避行の際、光厳自身も流れ矢を受け左肘を負傷している。 帰京より1ヶ月程した6月26日、持明院統の治天であった後伏見上皇が失意のあまり出家し、光厳に文書を出して出家を勧めた。しかし、光厳は「思ひよらぬ」と堅く断り、花園も出家しなかった。 同じ頃、関東では鎌倉幕府が新田義貞の攻撃をうけて滅亡した。後醍醐は帰京して建武の新政を開始、5月25日に光厳は在位1年半余で廃立され、在位中の元号・補任・女院号などが取り消されてしまった。12月10日、光厳は後醍醐によって「朕の皇太子の地位を退き、皇位には就かなかったが、特に上皇の待遇を与える」として尊号が贈られる。
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