即位から帰順まで
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乾祐元年(948年)正月、天龍堂で即位し、弟の銭弘億を丞相に任じた。3月には、兄の銭弘倧の暗殺を進言した胡進思の進言を泣いて拒否、胡進思は薛温に王命と詐って銭弘倧の暗殺を命じたが拒否され、憂悶のうちに死去した。 乾祐3年(950年)2月、南唐の陳誨が福州に攻めて来たので、策略でもってこれを敗退させた。 広順2年(952年)6月、母太后が薨去。9月、禁酒令を出した。 顕徳3年(956年)正月、後周の南唐攻めに要請により丞相の呉程を参加させるがも、敗退する。この年、敗戦による人手不足のため、民から徴兵を試みたが、弟の銭弘億に諫められて止めた。 顕徳5年(958年)2月、後周の南唐攻めに参加し、南唐が後周に帰順する。4月、杭州で大火事。 建隆元年(960年)、後周の世宗(柴栄)が急死し、陳橋の変により趙匡胤が即位し北宋成立。9月、クーデターを計画していた母方の叔父の呉延福らを流罪にする(処刑を勧められたが泣いて止めさせた)。 乾徳2年(964年)11月、宋の後蜀攻めに王妃孫太真の弟の孫承祐を派遣して参加させた。以降、王世子の銭惟濬を度々代理として開封に派遣した。 開宝3年(970年)9月、宋から南漢の富州攻めに参加を命じられたが、距離が遠いという理由で免れた。 開宝7年(974年)10月、宋の南唐攻めに自ら出征し常州を攻め、翌年4月に降伏させる。 開宝9年(976年)正月、南唐降伏の祝賀のため、自ら開封に海路で参内、4月に帰国する。10月、趙匡胤が急死し、弟の趙光義が即位(太宗)。11月に王妃孫太真が薨去した。 太平興国3年(978年)3月、再び開封入りし、5月に臣下と図って、13州・1軍・86県の呉越領を献じた。宋からは淮海国王に封じられた。 雍熙元年(984年)12月、漢南国王に改封された。 雍熙4年(987年)2月3日、武勝軍節度使を拝命され、南陽国王となった。2月21日、許王に改封されている。 端拱元年(988年)2月、鄧王に封じられ、鄧州に住んだ。同年8月24日に還暦を迎え、その祝宴の席上で倒れ、薨去した。
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