即位から帰順までとは? わかりやすく解説

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即位から帰順まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:38 UTC 版)

銭弘俶」の記事における「即位から帰順まで」の解説

乾祐元年948年正月天龍堂で即位し、弟の銭弘億を丞相任じた3月には、兄の銭弘倧暗殺進言した胡進思の進言泣いて拒否、胡進思は薛温に王命と詐って銭弘倧暗殺命じた拒否され憂悶のうちに死去した乾祐3年950年2月南唐の陳誨が福州攻めて来たので、策略でもってこれを敗退させた。 広順2年952年6月、母太后薨去9月禁酒令出した顕徳3年956年正月後周南唐攻め要請により丞相の呉程を参加させるがも、敗退する。この年敗戦による人手不足のため、民から徴兵試みたが、弟の銭弘億に諫められて止めた顕徳5年958年2月後周南唐攻め参加し南唐後周帰順する4月杭州大火事建隆元年960年)、後周世宗柴栄)急死し陳橋の変により趙匡胤即位し北宋成立9月クーデター計画していた母方叔父の呉延福らを流罪にする(処刑勧められたが泣いて止めさせた)。 乾徳2年964年11月、宋の後蜀攻め王妃孫太真の弟の孫承祐を派遣して参加させた。以降王世子の銭惟濬を度々代理として開封派遣した開宝3年970年9月、宋から南漢富州攻め参加命じられたが、距離が遠いという理由免れた開宝7年974年10月、宋の南唐攻めに自ら出征し常州攻め翌年4月降伏させる開宝9年976年正月南唐降伏祝賀のため、自ら開封海路参内4月帰国する10月趙匡胤急死し、弟の趙光義即位太宗)。11月王妃孫太真が薨去した。 太平興国3年978年3月、再び開封入りし、5月臣下図って13州1軍86県の呉越領を献じた。宋からは淮海国王に封じられた。 雍熙元年984年12月漢南国王改封された。 雍熙4年987年2月3日武勝節度使拝命され、南陽国王となった2月21日、許王に改封されている。 端拱元年988年2月、鄧王に封じられ鄧州住んだ同年8月24日還暦迎え、その祝宴席上倒れ薨去した。

※この「即位から帰順まで」の解説は、「銭弘俶」の解説の一部です。
「即位から帰順まで」を含む「銭弘俶」の記事については、「銭弘俶」の概要を参照ください。

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