即位から領土拡張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/22 09:27 UTC 版)
父の高王大祚栄の死去により王位を継承した。即位後は唐の正朔採用を中止し、独自に建元して元号を仁安と定め、唐から自立する方針を打ち出した。仁安2年(720年)に唐は左驍衛郎将摂郎中の張越を派遣し、契丹及び奚に対する共同攻略が提案されたが、この要求を拒否している。その理由としては渤海と契丹の間に敵対関係が存在しなかったことと、渤海が独自に周辺民族を併呑する用意があったためと考えられている。事実この時期の渤海は東は綏芬河を越え沿海州に達し、南方は朝鮮半島の大同江、西は松花江中流域にまで広がっていたと推測されている。これにより高句麗滅亡後に北進政策を続けた新羅の北進を妨げ、また北方でも拂涅部や越喜部などの靺鞨部族を支配下に置いていった。このことは『新唐書』の斥大土宇(土地と居民を開く)や、日本に宛てた国書の中で濫りに諸蕃を惣ぶとの『続日本紀』の記載がそれを物語っている。しかし渤海の北方にはなお黒水部と称される靺鞨が存在しており、その対立が渤海内部での分裂を引き起こすこととなった。
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