博文館の解体と公職追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/03 07:20 UTC 版)
進一は、終戦直後から「日本の占領はアメリカではなく、必らずソビエットだ」と言い張り、社員がアメリカだと言っても信じず、「共産政権では、私有財産は絶対に認められない」といって大橋家の財産の処分を始めたという。 終戦直後、それまで出版界の統制団体であった日本出版会が解散し、1945年10月に出版業者団体として日本出版協会が発足したが、同協会では左派の民主々義出版同志会が主導権をにぎり、講談社・旺文社・主婦之友社・家の光協会などを「戦犯出版社」として追及した。これに反発した講談社など21社は、1946年(昭和21年)4月15日、自由出版協会(自由出協、全国出版協会の前身)を設立し、博文館社長の大橋進一が初代会長に就任した。 1947年(昭和22年)1月4日付で、博文館は公職追放令の該当団体に指定され、大橋進一社長ほかが公職追放の審査対象者となる。 この公職追放問題に対処するため、同年8月、大橋進一は新たに講談雑誌社など6つの出版社を設立し、博文館発行の雑誌・図書をこの6社に有償分割譲渡した。また、大橋家の財産保全会社であった株式会社大橋本店を東海興業株式会社と改称し、6社の出版取次販売を行うこととした。10月15日、大橋進一は独占禁止法の適用により博文館社長を辞任。同月中に博文館の全社員を退職させ、6社と東海興業に振り替えるとともに、博文館の廃業届を提出した。11月22日、大橋進一の公職追放が決定。同月、自由出版協会会長を辞任。 ところが、6社の発行名義人は全員大橋家の身内だったため、1948年(昭和23年)1月頃から4月頃にかけて、法務庁特別審査局(特審局)が公職追放令違反の疑いでたびたび内偵に入った。このため危機感をいだいた進一は、元博文館社員の小野慎一郎・小野高久良・高森栄次の3人を呼び出し、3人に出版権を全面譲渡した。これにより同年5月15日、博友社(小野慎一郎)・文友館(高森栄次)・好文館(小野高久良)の3社が新設され、旧博文館の出版業務は完全に大橋家から切り離された。ただし、3社は事実上一体で、小野慎一郎が経理、高森が編集、小野高久良が資材を担当する形になっていた。同年7月25日、大橋進一邸宅・博友社等が公職追放令違反容疑で家宅捜索を受けるが、証拠不十分で不起訴となる。さらに同年10月、相続税等の脱税容疑で税務調査を受ける。 また、進一は11月4日、東京都教職員適格審査委員会で教職不適格者と判定されている。 1949年(昭和24年)、旧博文館6社・東海興業から株式会社化された博友社(文友館・好文館を統合)への出版権有償譲渡交渉がまとまり、総額1600万円で譲渡。
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