博文館社長として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/03 07:20 UTC 版)
1914年(大正3年)6月より博文館の経営を一任される。 1918年(大正7年)8月10日、妻の蓮子が死去。同年12月17日、博文館の株式会社化にともない、社長に就任。博文館社員の小野慎一郎によれば、当時の進一は「あまり出版業の博文館に魅力を感じなかったのか、専ら株式投機にばかり凝っていたようでした」という。 1926年(大正15年)5月1日、「一身上の都合」により博文館社長を辞任し、副社長で異母弟の大橋勇吉が社長に昇任。実際は、進一に社長の才がないと見限った父・新太郎による解任だったといわれる。牛込の洋館で隠棲。 1930年(昭和5年)3月18日、博文館臨時株主総会において大橋勇吉社長が辞任し、進一が再び社長に復帰。詳細な理由は不明だが、勇吉はもともと身体が弱く、出社が少なかったことに加え、看板雑誌だった『太陽』の廃刊(1928年)との関係も指摘されている。 1943年(昭和18年)の時点では、博文館のほか海南印刷、共栄紙工、共栄商会、協同出版各株式会社の社長、大橋本店、日本書籍、日本鋼管、大日本出版、日本無線、満洲書籍配給、日本醸造、朝日野球倶楽部、共同建物、南海興業各株式会社の取締役、日満文教株式会社の監査役を兼任していた。 1944年(昭和19年)5月5日、父・新太郎が死去。これにともない進一が博文館第3代館主となり、大橋家の全財産を相続した。
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