包囲戦の経過とは? わかりやすく解説

包囲戦の経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 03:05 UTC 版)

アッコの陥落」の記事における「包囲戦の経過」の解説

アッコは、これまでの十字軍歴史の中で騎士巡礼者築いた2重の城壁12の塔を誇る城塞だった。 1291年4月6日ハリール率いエジプト軍アッコ到達したその2日後にはシリア軍諸々攻城兵器とともに到着したマムルーク朝軍は城壁から2キロメートル離れて北西海岸線から南東海岸線に至る包囲線を敷いたハリール自身天幕をレガーテ(Legate)の塔の前小さな丘に置いたマムルーク朝軍が包囲を敷く8日間の間にも小競り合い起こった9日目から11日目にかけて、マムルーク朝軍はバリケード小枝細工つくった防壁を城の外壁前の堀まで押し出し、Carabohasという高速射出を行う攻城兵器投入した。さらに攻城軍は、坑道掘って防壁爆破しようともしたアッコ城門開かれていたが、緻密に設計されたサリーポート(出撃路)によって固く守られていた。 十字軍側も、時には撃って出てマムルーク朝陣営攻撃した包囲戦最北部に陣取っていたハマー軍の陣営海陸両面から攻撃して成功したものの、十字軍側も大きな損害出した。またジャン・グライーやオットー・ド・グランソンが300人のテンプル騎士率いて月夜敵陣襲撃しギリシアの火用いてハマー軍の攻城兵器焼こうとした。兵器破壊はかなわなかったものの、このテンプル騎士たちは1000人以上の敵兵殺し、その首や奪った軍需物資持ち帰ってきた。しかし全体としては、こうしたマムルーク軍を混乱させようとする出撃有効な成果挙げられなかった。 5月4日キプロス王アンリ2世40隻の船と700人の兵を率いてアッコ到着した。これにより一時的に防衛軍士気上がったが、この頃には十字軍マムルーク朝との和平交渉試み行われていた。十字軍首脳部は、今まで同様に金で停戦買えると信じていた。5月17日騎士ウィリアム・ヴィリアーズと、ギヨーム・ド・ボジューの家令ウィリアム・オブ・カフランがハリールのもとへ和平交渉行った十字軍側は降伏拒否しつつ、住民のために包囲中止し停戦を結ぶよう求めた。しかしハリールは、防衛軍退去する場合は命と財産保証するとしたうえで、あくまでも市の降伏要求したため、交渉決裂した交渉終盤アッコから放たれ石弾ハーリル天幕付近に着弾した。これに激怒したハーリル翌日総攻撃命じた。なお、アッコからの交渉団は危害加えられることなくアッコ帰された。 5月18日までに、いくつかの塔と城壁一部坑道爆破により崩壊していた。王の塔の崩壊は特に防衛側意気をくじくものであり、それ以降女性子供アッコ脱出加速した

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包囲戦の経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/29 00:57 UTC 版)

マリーエンブルク包囲戦 (1410年)」の記事における「包囲戦の経過」の解説

ポーランド・リトアニア連合軍は7月26日マリーエンブルク城到着した。この日までに、マリーエンブルク城籠城しているハインリヒ・フォン・プラウフェンは城を取り囲む建物焼き払い籠城戦優位に進めるべく準備をしていた。しかし、ポーランド王騎士団壊滅した思い込んでおり、すでに配下騎士たちに領地分配行なっており、守備兵がいなくなった騎士団の城や砦を少数部隊派遣して落とした。そしてこの時すでに、ドイツ騎士団はたった8つの城しか押さえ切れていなかった。連合軍側はハンガリー王国のジギスムント・ボヘミア王国ヴェンツェル使節派遣し援軍9月末までに派遣するよう約束させた。一方リヴォニア騎士団リトアニア大公国との三ヶ月間の条約失効するや否や500人の援軍派遣してきた。この包囲戦によりポーランド軍釘付けにすることで、ドイツ騎士団側は領内各地軍勢をまとめることができ、また、包囲側も長期包囲戦想定しておらず、弾薬不足や士気低下ましてや赤痢軍営流行り始めポーランド・リトアニア貴族たちは農業のために国に撤退するよう求め始め傭兵たち報酬を払うよう急かし始め始末となった。そして遂にリトアニア軍は一番に撤退し始め自国帰国した結局ポーランド軍9月19日まで城を包囲し撤退するにあたりマリーエンブルク城の南にに見張りのために砦を建設し騎士団圧力をかけ続けようとした。(砦に残したポーランド守備兵は後にドイツ騎士団に後降伏した。)

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