功績、生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 00:43 UTC 版)
20代に入ってから映画と関わり始め、スタントマンを経験後に1940年代初頭から本格的に俳優として活動しはじめた。俳優ウディ・ストロードの生涯は、黒人俳優の歴史を紐解くことに等しい。この当時、黒人俳優は、台詞や役名はもちろん、国籍さえも与えられぬような曖昧なキャラクターばかりで、その大半が作品のファクターとなる役柄ではなく、その他大勢の兵士や労働者、悪党の郎党などといったものばかりであった。こうした理不尽な扱いしかされぬ黒人俳優を、彼は主役を引き立てる準主役という地位にまで引き上げたばかりか、黒人俳優が映画の主役を張るという現在ではごく普通となっている状況の下地を作る役割を果たしたことから、まさしく黒人男優の父祖的な存在といえる。 その発端は、まずストロードの魅力にあった。1940年代、デビューして間もなくおびただしい数の映画に出演を続けていた彼は、鍛えぬかれた筋肉質な肉体と野性味を宿した風貌を買われ、白人俳優には出せない貴重な個性として重宝され始める。1950年代に入り、型破りなスター、アイドル像が当たり前となった時代の到来で、ストロードはあえて彼らの引き立て役にとどまったばかりではなく、『カリブの海賊』(1952年)、『海底の大金塊』(1953年)、『非情のカード』(1954年)などのアドベンチャー的な作品でなくてはならない存在で鮮烈な印象を残した。特に、『スパルタカス』(1960年)の剣闘士ドラバ役が有名である。ストロードの知名度が上がる一方で、スクリーンでも黒人男優の存在感が次第に注目され始め後年、動のストロードとは対照的なシドニー・ポワチエ、デンゼル・ワシントンらに代表される知のイメージの後継者たちが台頭してゆく。 カラー映画やテレビドラマが全盛の1960年代、ストロードの個性は改めて新鮮な存在を放ち、驚きと活気を与えたばかりでなく、親しみやすいものとなってゆく。そして『プロフェッショナル』(1966年)以降さらに変貌をとげ、寡黙で冷徹、精悍で知的な個性を擁し、幅広い役柄で多くの作品に出演。褐色の弾丸という異名をとり、名バイプレイヤーの地位を確立してゆく。パニック映画やオカルト映画など、時代の流行にも対応をみせ、老いても尚、重厚な存在感を見せた。1980年代は一時ヨーロッパに移りB級作品に主演するが、晩年は一転してインディーズ出身の監督や若手の監督らに特別出演的な扱いで出演オファーを受けるなど、精力的な活動が続いた。 1994年、舌癌にかかり、程なくして他界。 最期までスタイルを変えることなく、現役の第一線でありつづけた。死に立ち会った監督の中には、次回作に起用を決めていた監督も多かったとされ、サム・ライミ監督もまた、黒人俳優創生期から全盛期を生きた先駆者に対しての敬意を表している。
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