創設期、アマチュア・リーグ時代
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「ボカ・ジュニアーズ」の記事における「創設期、アマチュア・リーグ時代」の解説
1905年4月3日、ラ・ボカ地区に住むイタリア・ジェノヴァ出身移民の5人の若者たちがフットボール・クラブを作ることの話し合いのために、後にボカの初代会長となるエステバン・バグリエットの家に集まった。数時間、5人で会議をしているとバグリエットの父親がこの5人を家から追い出した。追い出された5人は仕方なくソリス広場に行って、なおもこの企画の話し合いを続けた。そして名前を「ボカの若者たち」という意味のボカ・ジュニアーズとすることにした。今日ではこの1905年4月3日のソリス広場がボカ・ジュニアーズが誕生した日付と場所となっている。チーム名に英語名を付けることはボカ・ジュニアーズが誕生した時代ではありふれたことだった。記念すべきチームの初試合は1905年4月21日で、対戦相手はクルブ・マリアノ・モレノというチームでボカは白色と黒色の縦縞のユニフォームで臨み4-0で勝利した。 1907年時点では、ボカ・ジュニアーズは青色のシャツと白色のパンツのユニフォームを使用していた。ある時、ブエノス・アイレスのアルマグロ地区から来たチームと試合をする際、そのチームがボカと同じ配色でよく似たユニフォームを着用していた。そして両チームは話し合いをして、「試合をして負けた方は現在のユニフォーム使用を止める」という決闘試合をすることにした。この試合にボカは負けてしまった為、新しいデザインのユニフォームを決めなくてはいけなくなった。そして港湾労働者でクラブ会長のフアン・ブリチェットが「明日の朝に、ボカの港に最初にやって来た船のカラーを新ユニフォームの色にする」ことを決めた。翌朝一番に訪れた船舶はスウェーデンの船で青色と黄色の国旗をなびかせていた。その結果、ボカ・ジュニアーズは青色と黄色(ボカ・サポーターは黄色だが金色と呼ぶ)を新しいチーム・カラーにすることに決めた。そして新ユニフォームは青色のシャツに黄色のタスキ掛けのデザインに決めた。このユニフォームは1912年まで使用された。 翌1913年、ボカはユニフォームのデザインを変更する事を決定した。新ユニフォームは青色のシャツに黄色の太い横縞が1本入ったデザインにする事を決めた。こうしてお馴染みのボカのユニフォームが誕生した。このデザインは21世紀の現在に至っても変わっていない。 ボカは1908年からアルゼンチン・フットボール連盟のアマチュア・リーグ2部に参加して本格的に公式リーグ戦を戦い始めた。そして5年後の1913年に悲願の1部昇格を果たした。この1913年シーズン、第11節(8月24日)でボカはCAリーベル・プレートと初対戦した。これは後にスーペルクラシコとまで呼ばれるライバル関係の幕開けの試合となった。この試合でボカは1対2で敗北した。6年後の1919年シーズン、ボカは初のリーグ優勝を遂げた。クラブ創設14年目で悲願の優勝を果たした。しかし、このシーズンはアルゼンチン・フットボール界に大事件が起きたために多くの試合が無効試合となり、ボカは公式のチャンピオンではあるが結局8試合しか試合をせずに初優勝した事になっている。1919年シーズン中にアルゼンチン・フットボール協会が、一部のクラブがアマチュアが参加条件であるのに選手に陰で給料を支払っていたことを知った。その為、協会はそれらのクラブのリーグ参加を禁止した。しかし、禁止されたクラブは独自に新リーグ(Asociación Amateurs de Football「アマチュア・フットボール協会」という名称)を創設することを表明して多くのクラブは新リーグの方へ移ってしまった。ビッグ5の他の4チームCAリーベル・プレート、CAインデペンディエンテ、ラシン・クルブ、CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロは全て新リーグ側へ移った。しかし、ボカはそのままアルゼチン・フットボール協会のリーグに残る決断をした。その結果、従来のリーグにはたった6チームしか残らなかった。なおかつアルゼンチン・フットボール協会はリーグ分裂までに行われた数多くの試合は全て無効という決定をした。そのためリーグ分裂後、9月末から残った6チームにより8試合戦うという変則的なリーグ戦が行われた。ボカはこの8試合を8連勝して優勝となった。ボカのクラブ史上初優勝はとても珍しい形の優勝となった。この初優勝のチームにはブレオ・カロミーノ、アルフレッド・マルティン、パブロ・ボッソなどが居た。 翌1920年シーズンから、アルゼンチン・フットボール協会は1部リーグのチーム数があまりにも少ないので徐々に参加クラブ数を増やす事を決定した。しかし、2部に居るチームを格上げして1部に参加させただけなので、実態は1部リーグに弱いチームが新たに数多く加わっただけであった。その結果、ボカはかなり格下のチームとばかり対戦する事になり1920年シーズンにも簡単に優勝して連覇を達成した。その後、2年間優勝を逃したが、ボカは再び1923年、1924年シーズンにも優勝して2度目の連覇を達成した。この様に他の強豪クラブが全て新リーグの方に移ってしまった為に、ボカは簡単に優勝を重ねた。そしてボカは弱いチームと数多く対戦する事になったので1925年4月26日から1927年6月26日の間、3年以上という長期間に渡り、無敗を続けた。この結果、ボカは59試合無敗という驚くべき無敗記録も作った。 そして1927年に分裂していたリーグが統合されることになった。名称は“Asociación Amateurs Argentina de Football”(アルゼンチン・アマチュア・フットボール協会)となった。3年後の1930年シーズン、この統合されたリーグでアルゼンチン・フットボールの最後の国内1部アマチュア・リーグ戦が行われた。この最後のシーズンでボカは優勝を成し遂げた。これによりボカはアマチュア時代、計6度の優勝で、アマチュア・チームとしての活動を終えた。
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