初期作業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/12 08:51 UTC 版)
「スタインウェイ・トンネル」の記事における「初期作業」の解説
イースト川の下に鉄道トンネルを掘る最初の計画は1885年まで遡る。2月22日にイースト川トンネル鉄道 (East River Tunnel Railroad Company) が設立された。この会社の目的はクイーンズ区のロングアイランド鉄道 (LIRR) 本線とマンハッタン区のニューヨーク・セントラル・アンド・ハドソン・リバー鉄道線の線路を結ぶことであった。当時、ニューヨーク市内での区と区の間の移動はそのほとんどが陸上交通手段の無い川で妨げられており、フェリーもまた大量の人員の輸送に適さず定期運行も実施されていなかったため実用的では無かった。またクイーンズボロ橋の建設計画も停滞していた。しかし、結局イースト川トンネル鉄道は一切手付かずのまま消滅してしまった。1887年7月22日、ウォルター・スミス・ガーニーとマルコム・W・ニーヴンがニューヨーク・アンド・ロングアイランド鉄道を設立し、まもなくイースト川を横断するトンネルの計画が始められた。 トンネルはマンハッタン区近郊のハドソン川ドックのニューヨーク市側から始まり、そこからグランド・セントラル駅まで42丁目の下を東へ直進し、イースト川を潜る。クイーンズ区に入ると5番街(現:49番街)と4番街(現:50番街)の間に出てジャクソン・アベニューの地下を通過、最後にトムソン・アベニューを通ってハンターズポイント・アベニュー駅にてLIRR本線と接続する計画であった。長さ5.6マイル(9.0キロメートル)のトンネルの総工費は1,170,000ドルとなる見込みであった。しかし、この費用は会社の財務能力を遥かに上回る数値であった。このため1891年7月、世界的ピアノメーカースタインウェイ・アンド・サンズのウィリアム・スタインウェイがトンネル建設資金の調達を開始した。アストリア地区においてスタインウェイは工場のほか多くの不動産資産を取得した。結果彼はニューヨーク・アンド・ロングアイランド鉄道の筆頭株主になり、会社の新しい会長となった。スタインウェイはトンネルの開通によって近隣地域の自分の不動産の価値が上がると考え、トンネルは電化すべきであると助言した。 トンネルのルートは1890年にマンハッタン区内、1891年にクイーンズ区内が確定した。その後1892年6月7日にNY&LIRRプロジェクトとして建設が始まった。しかし、このプロジェクトは開始後まもなく多くのトラブルに見舞われた。トンネルの建設位置は複雑な地層の川の直下を通っているため水が噴発したりトンネル内に流入したりといった水に関するトラブルが特に多く起こった。1892年12月28日、5人が死亡する爆発事故が起きた。当時、バーノン・アベニューとジャクソン・アベニュー、50丁目の交差点に深さ85フィート(26メートル)のシャフトが掘られ、発破のためのダイナマイトを加熱中であったが、突如ダイナマイトが爆発。5人が死亡、12人が負傷し、周辺の多数の家屋が多大な損傷を受けた。この事故の高い補償請求により、会社は財政的に破綻してしまった。1893年には株式市場が暴落したため追加資金の調達に失敗した。この結果建設作業は中止された。また、投資家も事故の発生により工事の危険性を懸念したため資金提供を拒否した。スタインウェイが1896年に亡くなるまでの間に建設を再開しようとする動きが時折あった。
※この「初期作業」の解説は、「スタインウェイ・トンネル」の解説の一部です。
「初期作業」を含む「スタインウェイ・トンネル」の記事については、「スタインウェイ・トンネル」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から初期作業を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から初期作業 を検索
- 初期作業のページへのリンク