写本の発見と出版の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 16:27 UTC 版)
「シビュラの託宣」の記事における「写本の発見と出版の歴史」の解説
現在伝わっているテクストは16世紀以降に再発見されたものであり、出版や校訂の歴史もそこから始まる。写本の発見に関わったのは、アウクスブルクの人文主義者クシストゥス・ベトゥレイウス (Xystus Betuleius) である。彼はラクタンティウスの著作集を出版しようと蒐集した写本群の中から、『シビュラの託宣』のギリシア語写本を発見した。彼はそれをもとに、第1巻から第8巻に6世紀のものとされる序文を添えたギリシア語版を、1545年にバーゼルで出版した。『シビュラの託宣』が公刊されたのはこれが最初であり、この出版は知識人たちの間で大きな反響を呼んだ。 翌年には、セバスティアヌス・カスティリオ (Sebastianus Castellio) によるラテン語対訳版が刊行された。カスティリオは1555年にも対訳の増補版を出版し、断片1、2、3を初めて公刊した。 1599年にはよりよい写本を基にした版が、ヨハンニス・オプソポエウス (Johannis Opsopoeus) によってパリで出版された。これは初期のテクストの中で最良と評価されている。逆に1689年にアムステルダムで刊行された版はその校訂上の価値が低い。18世紀には、1713年にサー・ジョン・フロイヤー (John Floyer) によって英訳版が出版されたり、アンドレーア・ガッランディ (Andrea Gallandi) による『ビブリオテカ・ウェテルム・パトルム』(ヴェネツィア、1765年 / 1788年)に採録されたりした。しかし、学術的に正確を期した版と評価できるものは、19世紀まで出版されることがなかった。 1817年にはアンジェロ・マイ (Angelo Mai) がミラノのアンブロジアーナ図書館で発見された写本に基づき、第14巻を初めて出版した。さらに彼はヴァティカン図書館で新たな4巻本(第11巻から第14巻)も発見し、そちらも1828年にローマで公刊した。それらはコンラート・ゲスナーが『普遍的図書館』(1545年)で一度は報告していたものだったが、マイが再発見するまで失われていた。全12巻分をまとめて出版したのは、ライプツィヒのフリードリープ (J. H. Friedlieb) の版(1852年)が最初だった。フランスではシャルル・アレクサンドルが1841年に8巻分の対訳版を出して以降、第11巻以降の分も含めて改定を重ね、1869年には「決定版」 (editio optima) を刊行した。『カトリック百科事典』(1913年)では、このアレクサンドルの版が非常に有用な版として評価されている。 19世紀には他にも様々な校訂版が出されたが、1902年にはライプツィヒでヨハンネス・ゲフケンによって包括的な校訂版が出版された。この校訂版は、16世紀のカスティリオ、オプソポエウスのほか、19世紀になって出版されていたシュトゥルーヴェ、アレクサンドル、マイネッケ、バット、ヘルヴェルデン、メンデルスゾーン、ルザック、ブレシュ、ヴィラモーヴィッツらの校訂版を踏まえたものになっている。なお、『エンサイクロペディア・ビブリカ』(1899年)ではルザックの版が高く評価されており、『ジューイッシュ・エンサイクロペディア』(1901 - 1906年)では、アレクサンドル、ルザック、ゲフケンの版が特筆すべき版として評価されている。 1951年にはクルフェスによる新しい校訂版が登場したが、これは組み換えや削除などの点で、ゲフケン版に比べてかなり大胆な校訂が行われたものだという。ゲフケン版はJ.J.コリンズによる英訳や後述する日本語訳の際の底本になっているが、それらの訳書においても、クルフェスの研究成果は取り入れられている。
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