共同防火意識の欠落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 22:45 UTC 版)
「千日デパート火災」の記事における「共同防火意識の欠落」の解説
千日デパートは、1958年(昭和33年)12月の開業当初から複合用途の商業施設だったが、1963年(昭和38年)3月13日にビル全館を同一の管理権原者(千日デパート管理会社)が管理する防火対象物として南消防署長に対して防火管理者および消防計画が提出されていた。ところが1967年(昭和42年)に異なる管理権原者である「プレイタウン」と「ニチイ千日前店」が同ビルに出店したことから防火管理体制が複数に分かれるきっかけになった。特に7階プレイタウンは、独自の防火管理者を選任し、個別に防火管理をおこなう体制になっていた。1969年(昭和44年)に消防法が改正され、管理権原が分かれている複合用途防火対象物は共同防火管理が必要な対象物に改められたが、1971年(昭和46年)6月に南消防署は、千日デパートの主要な管理権原者である「千日デパート管理部(日本ドリーム観光)」「プレイタウン」「ニチイ千日前店」の防火管理者を消防署に呼び、3者ごとの消防計画作成および全体としての共同防火管理に基づく消防計画作成の協議会を3者で開くように指導した。右3者は南消防署の指導に従って協議会を開いたものの、会議で計画をまとめることはできなかった。以降3者は南消防署の度重なる指導にもかかわらず、火災発生当日に至るまで共同防火管理体制を取ろうとはしなかった。火災発生2か月前の3月に千日デパートとミナミ地下街関連の6つの関係者は、南消防署の指導で会議を開き、4月1日に「ミナミ地下総合共同防火管理協議会」を発足させ、その発会式を同月13日におこなった。組織や機構などを話し合う前に本件火災が発生したが、肝心のデパートビル内における共同防火管理体制は引き続き等閑となっていた。 千日デパートを経営管理する日本ドリーム観光と、プレイタウンを経営管理する千土地観光とは「親会社と子会社」の関係にあるが、両社間で共同の消火訓練や避難訓練を実施したことは一度もなかった。また千日デパートとプレイタウンの間で防火管理の責任者同士が火災や災害時の通報体制、避難誘導などについて協議したこともなかった。また、共同で防火管理を行うための協議会を設置する構想すらもなかった。異なる管理権原者同士の共同防火管理意識のなさを象徴する例として、火災発生の10か月前に千日デパート管理部は、6階以下の階すべてに災害時に全館一斉放送できる防災アンプ(非常放送設備)を設置したが、7階プレイタウンだけには設置されず、その事実をプレイタウンに通知していなかった。さらには7階プレイタウンから1階保安室へ火災発生を知らせる「火報押しボタン」は設置されていたが、全館の火災を知らせるために7階で鳴動する火災報知機(警報ベル)の設置はなかった。また1階保安室からプレイタウンへ緊急通報する手段は、内線電話と外線電話の両方があったものの、内線電話はデパート営業時間内(21時まで)に限られていた。デパート閉店後の保安室とプレイタウン間の連絡は、同じ建物内に入居していながら「外線電話(一般加入電話)」で行うしか手段がなかった。 大阪市消防局が千日デパートとプレイタウン相互の連絡体制について調査したところによれば、デパート保安係長の説明では「火災があってもプレイタウンに通報することになっていなかった」といい、プレイタウン支配人の説明では「階下で火災があればデパート側が知らせてくれることになっていた」と述べたが、平素からの取り決めについては明確ではなかったとしている。またデパート管理部管理課長の説明によれば「ビル管理上においてデパート側とプレイタウン側との間に規約的なものはなく、取り決めもない。巡回については慣習的にプレイタウンについてもおこなっている。火災時の通報については申し合わせていない」と述べた。管轄の南消防署は、災害時のプレイタウンへの連絡体制について、千日デパートに対してどのような指導をおこなっていたのかといえば、火災時にはプレイタウンに通報するように、と火災発生前から既に指導していたのである。
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