八戸店
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1968年(昭和43年)6月28日に青森県八戸市三日町丸光八戸店として開店し、開店2時間前から八戸駅 前まで続くほどの集客力で開業初日に約5万人の買い物客を集め、同日開業の緑屋八戸店と合せて祭り並みの人出となって八戸警察署が警察官42人を出して交通整理や警備に当たるほどの賑わいでスタートした。 経営母体の再編に伴って丸光小美屋、百貨店連合、ダックシティ、ダックビブレと経営が引き継がれ、店名も'ダックシティ丸光八戸店、八戸ビブレと変遷した。マイカルグループの経営破綻により、ダックビブレがマイカルグループを離脱し(初代の)さくら野百貨店となった時点で、店名をさくら野百貨店八戸店とした。その後、経営再建計画の一環で、2005年4月に初代のさくら野百貨店からさくら野東北(3代目にあたる現在のさくら野百貨店)が分割 されると、さくら野東北へ経営が引き継がれた。 1969年(昭和44年)11月13日に以前から営業していた地場資本の百貨店丸美屋が閉店に追い込まれ、隣接して衣料品店を経営していた三春屋が買収して 百貨店としての営業に乗り出すなど当店の進出は大きな影響を与えた。 1970年(昭和45年)11月6日に開店した長崎屋八戸店 や1971年(昭和46年)10月7日にニチイ八戸ショッピングプラザ などと競争しながら共に中心街を代表する大型店として営業し、1978年(昭和53年)には地場資本の百貨店だった三春屋と共に大規模な増床をし、1980年(昭和55年)4月19日に開店したイトーヨーカドー八戸店 を含む大型店同士で激しい競争を繰り広げた。 近年はモータリゼーションの進展の影響で1995年(平成7年)に約33.2万人だった中心街の通行量が2005年(平成17年)に約18.1万人に減少して、1997年(平成9年)に合計約730億円あった中心街の売上高が2002年(平成14年)に合計約508億円と急激に落ち込んでラピア、イオン下田、ピアドゥなどの郊外型ショッピングセンターの売上が2002年(平成14年)に合計約440億円と匹敵するレベルに達するなど急激に進んだ中心街の空洞化の影響を受け、1985年(昭和60年)に開店したヴィアノヴァ と同じくファッションビルのチーノはちのへにおける債権が青森銀行から外資系ファンド、さらに外資系ファンドから地元資本に売却され、2003年(平成15年)4月 に移転を理由にイトーヨーカドー八戸店が撤退する など店舗周辺の商業環境は厳しくなっているものの、八戸市中心市街地における百貨店の営業を続けている。 現在も百貨店として展覧会などの各種催事も行われている。 1996年(平成8年)10月に地権者25人が設立した三日町番町地区市街地再開発準備組合の核店舗として当店が想定されていたが、ダックビブレの経営破綻で構想が宙に浮いて地権者全員の同意が得られなくなり、2004年(平成16年)4月に組合が解散して再開発構想自体が挫折した。 その後2007年(平成19年)1月に活性化策の一環として当店と近隣の金入や類家大学堂薬局を合せた敷地面積7,750m2を一体的に再開発する構想が浮上して再び店舗の再開発構想が進み始めている。
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