党結成の経緯
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「ドイツ独立社会民主党」の記事における「党結成の経緯」の解説
1914年8月に第一次世界大戦が勃発。国内のすべての党派争いの停止を求める政府の求め(「城内平和」)に応じて、ドイツ社会民主党(SPD)首脳部は戦争支持の方針を打ち出した。党内の急進左派はその方針に反対したが、中央派や修正主義派は方針に従った。しかし1915年に入った頃には短期決戦の見込みが破たんし、党の戦争支持方針に対する不満は急進左派以外にも広がり始めた。 社民党共同党首で中央派のフーゴー・ハーゼは「国民の連帯とは社会的・政治的要求の停止を意味しない」と主張して「城内平和」を批判し、党内反対派「ハーゼ・グループ」を形成するようになった。1915年春以降戦争目的論争が起きると修正主義派のベルンシュタイン、中央派のカウツキーら党の長老がこの「ハーゼ・グループ」に加勢するようになったため勢いを増した。 1914年12月の段階では帝国議会の戦時公債承認採決で賛成票を投じなかった社民党議員は、急進左派のカール・リープクネヒトのみだったが、1915年3月の戦時公債を計上した予算案の決議の際にはフーゴー・ハーゼやゲオルク・レーデブール(ドイツ語版)ら30名の社民党議員が党指導部に造反して議場から退席して棄権した(反対はリープクネヒト含めて2名)。同年6月にはハーゼ、エドゥアルト・ベルンシュタイン、カール・カウツキーが連名で「現下の急務」を発表して戦前の原則へ立ち返るべきことを要求するようになり、同年12月21日の戦時公債承認の採決では、社民党議員団のうち20名の議員が反対票を投じ、22名の議員が退場するまでに反対派が拡大した。 社民党指導部は反対派への締め付けを強化するようになり、1916年3月24日に臨時予算に反対したハーゼら造反議員18名を社民党議員団から除名している。これに対してハーゼは「社会民主党議員団は本日、賛成58、反対33、保留4をもって、議員団に属することから生じる諸権利を我々から奪った。」「我々は別の社会民主主義団体を結成することを余儀なくされた」と声明し、除名された議員たちは社民党議員団と別の議員団「社会民主協働団(ドイツ語版)」を構成するようになった。 その後、社民党多数派と反対派の対立はますます激しくなった。ただ反対派の言論は検閲や集会禁止によって妨げられたので、政府と近しい多数派は有利だった。反対派の手中にあった党機関紙『フォアヴェルツ(ドイツ語版)』も当局の助けを借りて多数派が奪還している。また同じ反対派の間でもリープクネヒトやローザ・ルクセンブルクらスパルタクス団を中心とする急進左派とハーゼら平和主義的中央派の間には対立があった。 戦争の長期化で食料欠乏は深刻化し、1916年から1917年にかけての冬は「カブラの冬」(ルタバガというキャベツとカブの仲間で飢えを凌ぐ冬という意味)となった。さらに「祖国援助勤労奉仕に関する法律」が制定されたことで強制労働の負担が大きくなり、国民の不満は高まっていた。1917年3月にロシアで革命が発生したこともあって、ドイツでも革命気運が高まった。社民党内の反対派の勢いも高まり、1917年1月7日にはあらゆる傾向の反対派が結集した集会が開催され、反対派の組織を全国的に結集する準備にとりかかることが決議された。またカール・カウツキー起草の次の宣言を採択した。「反対派が要求したことは、なにがなんでも平和を準備しろということでもなければ、平和の諸条件をより詳しく提示もせずにただ平和そのものを準備するだけでよいというものでもない。反対派が要求していることは、勝者も敗者もない平和。抑圧のない無賠償無併合の平和を準備することであった。」。 これに対して党指導部は彼らを党組織から除名することをもって応えたため、新党結成は不可避となった。1917年4月6日から8日にかけてゴータで創立大会が開催された。代議員の賛成77票、反対42票で「ドイツ独立社会民主党」の党名が決議された。
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