傭兵としての奉仕、1022年–1046年
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「ノルマン人による南イタリア征服」の記事における「傭兵としての奉仕、1022年–1046年」の解説
1024年に恐らくはライヌルフによって統率されたであろうノルマン人の傭兵は、当時、カプアにおいてランドルフォ5世(イタリア語版)をランドルフォ4世と共同で包囲したグリエルモ3世から報酬を受け賜わっていた。包囲から18ヶ月が経った1026年にカプアが降伏したことでランドルフォ4世が復権した。翌年にライヌルフ自身がランドルフォ4世のもとに加わったものの自らの公位を投げ捨てて、かつて恐らくは自身の助言によって1027年にランドルフォ4世によってナポリから追われたナポリ公セルギオ4世(イタリア語版)のもとに馳せ参じた。 1029年にライヌルフとセルギオ4世はナポリを再占領した。1020年初頭にセルギオ4世はライヌルフに対してノルマン人としては最初の公領となるアヴェルサ伯領(イタリア語版)を封地として授け、サラには自身の姉妹と結婚させている。しかし1034年に妻であるセルギオ4世の姉妹が没するとライヌルフはランドルフォ4世のもとに寝返った。アマトは以下のように述べている。 ノルマン人たちは自身にとって不利益になるであろうランゴバルド人による幾つかの決定的な勝利を一度たりとも望んではいなかった。もっとも今ではノルマン人とランゴバルド人は互いに助け合っていかなる破滅を防いでいる。 ライヌルフの陣営に見出され特に何も問われることなく迎え入れられたノルマン人の増援部隊並びに現地の野盗により,ライヌルフの勢力が膨張することとなった。同地では古ノルマン語(フランス語版)並びにノルマン人の習慣が異なる集団を民族として密接に結びつけたことが、先出のアマトによって観察されている。 1037年に神聖ローマ皇帝コンラート4世がランドルフォ4世を廃して直にライヌルフを「アヴェルサ伯」に任じたことでノルマン人の勢力は更に飛躍した。1038年にライヌルフはカプアに侵入して自分の国を南イタリアで最大の国の一つに拡大させた。 1038年から1040年にかけて、シチリアにおける東ローマ帝国のサラセン人に対する戦闘に参加させるためにグアイマーリオ4世・ディ・サレルノ(イタリア語版)率いる別のノルマン人の一団がランゴバルド軍団とともに派遣された。このシチリアにおける戦闘でゲオルギオス・マニアケス(ギリシア語版)指揮下で戦ったアルタヴィラ家の人物が初めて名声を得た。その一人であるグリエルモ1世・ディ・アルタヴィラ(イタリア語版)はシラクサ包囲戦で「鉄腕」という綽名を得ている。 1040年にアスコリにてカテパノであったニケフォロス・ドケアノス(イタリア語版)が暗殺されるとノルマン人達は新たな指導者を自分達の中から選ぼうとしたもののベネヴェント公アテヌルフ(英語版),に買収されて彼を指導者として擁くこととなった。1041年3月16日にオリヴェント(イタリア語版)のヴェノーザ付近にてノルマン軍は新たなカテパノとなったミカエル・ドケイアノス(イタリア語版)と交渉はしたものの失敗に終わってカンエナ付近のモンテ・マジョリエ(イタリア語版)[要リンク修正]にて戦闘となった。ミカエルはバーリからヴァラング親衛隊の大軍を呼び寄せたにも係わらず完敗に終わってその軍の多くが退却の際にオファント川にて溺死した。 1041年9月3日に名目上はランゴバルド人指導者であるアルドゥインとアテヌルフの指揮下にあったノルマン人は、新たなカテパノであるエクアウグスト・ボイアネス(イタリア語版)を破ってベネヴェントにて捕虜にしてかなりの数に及ぶランゴバルト人の残党が征服に影響を及ぼした。同時にこの時に関してグアイマーリオ4世はノルマン人を様々な約束とともにその軍旗に描いた。1042年2月に、恐らくは見捨てられたと感じたことと東ローマ側による買収であろうか、アテヌルフはエクアウグストの釈放について交渉して身代金とともに東ローマの領域に逃走した。アテヌルフに代わって初期に幾つかの勝利を納めたことのあるアルギロが新たに指導者として選ばれたものの、アルギロもその頃には東ローマ側に買収されていたという問題を抱えていた。 1042年9月にノルマン人たちは、最終的に自分たちの中から指導者を選出した。反乱は本来、ランゴバルド人によるものであったがその性質と指揮権がノルマン人によるものとなった。 鉄腕グリエルモ1世が「伯爵」として新たな指導者として選出された。グリエルモとその他指導者はグアイマーリオ4世に対して自らの征服を認めてくれるよう懇願した。ノルマン人達はメルフィ付近の土地を封地として拝領してグリエルモ1世はプッリャとカランブリア公であることを宣言した。1043年にグアイマーリオ4世は、共和制型で統治されていたメルフィそのものを除く領域を20の伯領として分割してノルマン人の指導者に恩典として授けた。グリエルモ1世はアスコリを、アスクレティンはアチェレンツァを、トリスタノ(イタリア語版) はイルシーナを、ウーゴ・トゥタボヴィ(イタリア語版)はモノーポリを、ピエトロ1世はトラーニを、ドローゴネ・ディ・アウタヴィラ(イタリア語版)はヴェノーザを、そして今は独立しているライヌルフ・ディ・ドレンゴトはモンテ・カルガノをそれぞれ受け取った。続いてグリエルモ1世はソレント公グイド(イタリア語版)の娘でグアイマーリオ4世の姪にあたるグイダと結婚したが、これによりノルマン人とグアイマーリオ4世との同盟が強化されることとなった。 統治期間中のグリエルモ1世とグアイマーリオ4世は、1044年にカラブリアへの征服を開始して、スクイッラーチェ付近にて巨大なストゥリドーア城を築いた。1045年グリエルモ1世がターラント付近にてアルギリスに敗北したことでアプリアの征服には失敗したものの弟のドローゴネはボヴィーノを征服している。しかしながらグリエルモ1世の死とともにノルマン人の傭兵としての奉仕時代に完全に幕が打たれて、ノルマン人による強力な二つの公国の台頭を目にすることとなった。一つはアヴェルサ伯領、後のカプア公国(イタリア語版)であり、もう一つはアプリア伯領、後のアプーリア公国(イタリア語版)である。両公国とも名目上は神聖ローマ帝国に申し立てる義務を負っていた。
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