傭兵と独裁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/24 16:05 UTC 版)
「ディオニュシオス1世」の記事における「傭兵と独裁」の解説
民主政をとっていたシュラクサイに対する、ディオニュシオスの勝利は、彼が、最悪にして最高の傭兵指揮者であったことを表している。暴君としてのディオニュシオスが第一歩を踏み出すのは、襲撃を偽装して自分の命が狙われていると見せかけ、護衛のために600人の個人的傭兵をもてるようになってからであった。ディオニュシオスはこの傭兵を1000人にまで増員でき、徐々に自分の権力を固めて、僭主としての地位を確立していった。ディオニュシオスは自分の傭兵を、シュラクサイのポリス共同体の隅々にまで配置した。その結果、民主政が機能していると思わせるものは、まったく消し去られてしまった。ディオニュシオスの統治は、「まったく違憲、違法で、民主政支持派の反乱を避けることができない」ものであった。地元シュラクサイにおけるディオニュシオスの立場は、早くも紀元前403年には、哲学的立場から僭主政治に反対する者たちによって脅かされた。 興味深いことにスパルタは、過去においてコリントスやアテナイから僭主たちを追放してきたにもかかわらず、ディオニュシオスやその独裁を非難することもなかった。実際、両者の関係は良好なものであり続けた。 ラケダイモーン人(スパルタ人)たちが、ギリシアの状況を自分たちが望むように落ち着かせたとき、彼らはアリストゥス (Aristus) という選り抜きの男をシュラクサイに派遣して、表面上は、政権から追い出すこともできるのだなどと威嚇しながら、実は僭主の権力を拡大させようとした。というのも彼らは、ディオニュシオスの支配が確固たるものとなることを助けてやれば、自分たちが提供した好意に応じて、ディオニュシオスの協力をいつでも引き出せるだろう、と期待していたのだ。 — シケリアのディオドロス 14.10.2 ディオニュシオスは、スパルタの支配下にある地域から、傭兵を徴集することも認められていた。古典古代における優れた民主政ポリスの崩壊と、その後のディオニュシオスの終身政権は、傭兵が広まったことによって紀元前4世紀に各地で繰り返される現象の先駆であった。傭兵と僭主は持ちつ持たれつの関係にあった。例えば、歴史家ポリュビオスは、いかに「暴君の安全は、ひとえに忠実で協力な傭兵にかかっていた」(Polybius 11.13)と記している。アリストテレスは、何らかの「護衛」(私兵)が絶対的な王権には不可欠だと記し(アリストテレス 『政治学(ポリティカー)』1286b28-40)、選挙で選ばれた僭主の場合は特定の適正な傭兵の人数があり、それより少数に過ぎると僭主の権力が脅かされ、多数に過ぎるとポリス自体が危うくなるとるとした。アリストテレスは、観察を踏まえて、シュラクサイの市民たちが、ディオニュシオスに多すぎる「護衛」を雇わせないよう警告されていたことを記している(アリストテレス 『政治学(ポリティカー)』同所)。
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