倫理観について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 03:35 UTC 版)
ムスハフの神の啓示では、神は、慈悲・利他の生き方をせよという啓示から、敵に対する、殺人、強奪、捕虜の虐待や売買をせよという啓示まで、幅広い倫理について語られている。 初期の教えの根本的な特徴としては、神が、人間個人と倫理的な関係を結ぶことにあったとされている。 倫理という点からムスハフを見た場合、初期の啓示はイエス、ブッダと同じ、慈悲の教えにあらわれている利他の生き方であると見ることができる。 初期の啓示では、クルアーン87章、84章、74章に見られるように、倫理観については、あまり触れられていない。最初期の啓示の中には、「あなたは金もうけ主義の人にはなるな、そんなことをしていると地獄に落ちるぞ」と言われていた。また、「あなたは、利己的な人にはなるな、そういう人は、地獄に落ちるぞ」と啓示されていた。そういう風に、利己的な生き方ではいけないということが言われていた。そうした警告が、変化していって「神の怒り」ということで唯一神教的な倫理観が姿を現すのは、初期と言われる期間が過ぎてからであるとされている。 一方、メディナ期に多く見られる特徴としては、自己の損得を行動の中心に据えた、ギブアンドテイクの教えであると見ることができる。。そして、人は皆、最後の審判まで、それぞれの魂を、神のお手元に担保として差し出しているとされる。それは、魂を、神に取られていることでもあるとされる。また、神が、「戦えば、最後の審判で天国で処女妻を持てるぞ」と啓示したことも、自分の現世で得た稼ぎ高だけきっちりと払っていただくのだという取引関係につながってくる。 メディナ期において、信者は、まず第一に預言者と倫理的な関係を結ぶように変化したとされる。そして、この預言者との契約を通じて、それによってはじめて信者は、神との契約に入るという構造に変化したとされる。 預言者が神の代理人のように変化したことにより、ムハンマドの心の動きが、そのまま信者の心の動きに影響を与えるようになっていった。 111章1~5節にある、アブー・ジャファルに対する呪いの句は、メッカ期の啓示の一つであるとされている。しかし、この句は神的な啓示とは異なり、ののしりの句であり、アラビア語のリズムから判断すると、たたみかけるような不吉な印象を与える句であるとされている。 この句は、神の啓示の中に混じった、不吉な存在による啓示の一例であると見ることができる。倫理的にみるならば、この句そのものが、神の倫理に反していると見ることができる。あらゆる被造物に慈悲をかけることが神の義務であるとされるならば、呪いではなく、正当なる「神の怒り」の審判が警告されるべき状況であるためである。 戦闘に対する規定については、「無抵抗」から、「敵を見つけ次第殺せ」までの幅があります。神の啓示についても、以下のような、啓示の幅があります。それは、「警告によって敵を救済する」から、「断罪を無視する敵を呪う」、「警告による敵の断罪」、「戦時における敵の殺人、強奪」、「捕虜の虐待」、などになります。「悪魔の唄」とされる事例では、神の啓示の最中に、悪魔によってムハンマドの舌に言葉が投げ込まれたと解釈されている部分がある。これは、神による啓示が行われている最中であっても、トランス状態になったムハンマドを悪魔が操ることは可能であるということを示していると見ることができる。この場合、ムハンマドには、神と悪霊を選択できる自由はないようだ。
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