修羅の復元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 15:21 UTC 版)
1978年3月、大阪府藤井寺市三ツ塚古墳で橇式の木製運搬具「修羅」がほぼ完全な形で出土した。修羅は樫の巨木が二股になった全長9mのもので、考古学関係者の関心を呼び、朝日新聞社の後援で、実際に復元して運搬の実験が計画、「五月やったと思いますねんけどな。朝日新聞社の和田さんという人ですわ。」と、西岡に依頼された。 折悪しく薬師寺西塔再建工事途中で、西岡は躊躇したが、「そんな文化的なことやったらええやないか。まあしたんなはれ。ということで」とあるように薬師寺側の了解をとりつけ西岡は元興寺文化財研究所に保存されている出土品を調査、ここで古代の技術者たちが、樫の木が水や衝撃に強い利点に着目した点と、二股の巨木から橇を自然なままほとんど手を加えずに完成させた点に感心する。 制作に際し、問題が相次いだ。材料は鹿児島県の徳之島に生育するオキナワウラジロガシが用いられたが、出土した修羅と違い、材料は二本に分かれていて継がねばならない。そして材質面でもかなり劣っていた。さらに西岡が一番憤慨したのは木を切るタイミングが悪かったことで、「霜がおりんと切ったらあかんねん。ほかの時期に切るとみなボケてしまうんや。切り旬も考えんと切って復元やなんて、そんなん根本から間違うてるでというたわけですわ。そうしたら新聞社の担当の人は青なったり赤なったり…」というような前途多難な開始であったが、関係者側の努力の末にようやく完成した。 特に二本を接合するボルトは、学者側が強度のために二三本を主張したのに対して、西岡は修羅は水平に引かれるのでなく、上下に揺れる事を予想すれば「そのボルトが本体を割ってしまう役をする。高低になっても、まんなかでどないでも動くように細工しとけば、一本でよろしい。」として除け、ボルト一本で済ませ、後は木材で補強することになった。 作成にはできるだけ古代の作業工程が用いられた。鋸をあまり使用せず、斧とチョウナで約一カ月かけて行われた。西岡は、接合と言う余分な作業があったことと、二股の樫の巨木が豊富にあったことを考え、当時は半月ほどで完成したのではと推測している。また、巨木を鋸を用いずに斧で切る作業については「一日かかったら十分切れます。…力はね。今の人はつかれてきたらもうヒョロヒョロしまんがな。昔の人はああいうもんを使いなれててね。なんでっしゃろ。おそらくわれわれがいま一日かかるものは半日でやってしまうと思います。」と述べて、古代の職人の技量を評価している。 こうして復元された修羅は同年9月、大阪府藤井寺市の石川と大和川の合流部の河川敷において巨石の運搬実験が行われて無事成功した。これに感激した唐招提寺長老森本孝順の依頼を受け、翌1979年、インドから請来した大理石宝塔の運搬に用いられた。(現在は道明寺天満宮に保存)西岡はこの修羅復元に際し「昔の人の体力の強さというか優秀さといえばいいのか、それがしみじみと感じられたこと。…そして木の使い方がとてもうまいということ。…そらえらいもんやな。」と感想を述べている。
※この「修羅の復元」の解説は、「西岡常一」の解説の一部です。
「修羅の復元」を含む「西岡常一」の記事については、「西岡常一」の概要を参照ください。
- 修羅の復元のページへのリンク