企業人として
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東京都出身。1967年に東京大学経済学部を卒業し東京ガス株式会社に入社。 1992年総合企画部経営企画グループマネージャー、1993年神奈川事業本部計画部長、1996年原料部長、1998年取締役原料部長。これまで商社任せだった液化天然ガス(LNG)調達に道筋を付けるべく東京電力と共にオーストラリア北部のガス田開発に出資。さらに自社LNG船を導入して輸送事業に参入。東京電力との協調体制を築いた。2000年常務取締役。 2002年取締役常務執行役員企画本部長。会社の中期経営計画をまとめ上げる強い求心力を発揮した。2003年代表取締役副社長執行役員企画本部長、コーポレート・コミュニケーション本部長を歴任。 2006年4月、代表取締役社長執行役員に昇格。社長就任の挨拶では「東京電力とは好敵手の関係を維持しつつ、協調を強化する」と述べ、電力会社によるオール電化住宅の普及攻勢に対しては、地域密着型営業体制の再構築を図り、「東京ガスライフバル」の編成を進めることで対抗した。また、茨城県日立市における液化天然ガスの新基地建設に道筋を付けるなど、温室効果ガスの削減対策にも取り組んだ。 2010年4月から2014年までは取締役会長。後に相談役。
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企業人として
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藤山覚一郎は日東化学から日東ユニカーを経て 1965年大日本製糖に専務として入社(当時の大日本製糖は有力な上場企業)。1969年には大日本製糖が47%の株を持っていたホテルニュージャパン社長に就任する。1971年には大日本製糖の社長に就任、新聞や雑誌には藤山2世登場と言われる。しかし、当時の日本の製糖業は構造不況で大日本製糖の業績も落ち、1978年大日本製糖は上場廃止になり、藤山は社長を退任し会長になる。1979年ホテルニュージャパンを大日本製糖の株主だった横井英樹に懇請 して売却、1982年には大日本製糖会長も退き相談役になる。1983年日本NCR常勤監査役。他には日本ATT情報システム監査役などを務め、2014年時点では株式会社集成社の監査役を務めていた。 2014年11月1日、東京都港区の病院で死去。86歳没。
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