企業人としてのレース界
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その後1973年、ノバエンジニアリング株式会社に入社。1978年までレース用車両の設計、製作、開発、レース参戦に携わる。1974 – 1978年の間生沢徹のチーフメカニック、エンジニアとしてレース参戦。1977年には富士グランチャンピオンレース(富士GC)シリーズチャンピオンを獲得する。その間1976年にノバ513のシャーシを設計、空力設計は由良拓也が担当した、以降ノバのレーシングカーはこの2人の組み合わせが多くなる。 製作したレースカーは1976年から1978年に参戦した全日本FJ1300選手権(ノバ513)、全日本F2000選手権、全日本F2選手権(ノバ512 設計は解良喜久雄その後宮坂宏が進化版を担当522・532と続く)、富士GC(ノバ53S[出典無効])でシリーズチャンピオンを獲得する。ドライバーは中嶋悟、星野一義など。 1978年には設計、製作したノバ513(F-3)で中嶋悟と共にイギリスF3に参戦する。 1979年にはアルミホイールメーカーだったフォートラン株式会社に入社1985まで在籍。技術管理部長としてアルミホイール製造、組立工場の立ち上げ、生産管理、アルミホイール、その他の自動車用品の設計開発、生産技術にかかわり開発および生産部門の指揮をとる。同時に Team Ikuzawa 及びムーンクラフト株式会社にてレース業務にも関わる。1979年から1985年までTeam Ikuzawaテクニカルアドバイザーに就任。1981・82年は中嶋悟、1983 はジェフ・リースを全日本F2チャンピオンに導いている。 1983年にムーンクラフト株式会社でル・マン24時間レースに当時のグループCジュニアクラス参戦のためのマツダ・717C[出典無効]のシャーシ設計を行う。空力設計は由良拓也。1983年ル・マン24時間レースに60・61号車の2台で参戦、60号車はクラス優勝。当時の日本製マシン最上位の結果を残す。宮坂宏は61号車の外人ドライバー、外人スタッフ組のエンジニアを務める。 1985年ムーンクラフト株式会社に入社1992まで在籍。取締役開発部長として設計開発およびレース部門の指揮をとる。自動車メーカーから受託の試作車の設計、競技用車輌の開発、設計等、鈴木亜久里、片山右京、中谷明彦、服部尚貴らのレースエンジニアを務める。1988年は3戦、89年はフルシーズン、ヨーロッパの国際F3000シリーズに参戦する。ドライバーは鈴木亜久里、片山右京。 1991年のF1日本GP・オーストラリアGPで、服部尚貴の乗るイタリア・コローニチームのエンジニアを務めるが、基本的に戦闘能力に欠けるマシーンでは如何ともしがたく両戦とも予備予選落ちだった。
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