仮説と検証の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 14:53 UTC 版)
アルファ崩壊の場合、アルファ粒子(アルファ線)と新しく出来た原子核の質量との合計は、崩壊前の原子核の質量よりも小さくなる。これは、放出されたアルファ粒子の運動エネルギーが、崩壊前の原子核の質量から得られているためである。 ベータ崩壊の場合は、崩壊後の運動エネルギーの増加が質量の減少より小さかった。そのため一部のエネルギーが消えてしまったように見え、研究者の間で混乱が生じた。ニールス・ボーアは放射性崩壊現象ではエネルギー保存の法則が破れると主張した。 一方、ヴォルフガング・パウリは、エネルギー保存の法則が成り立つようにと、β崩壊では(観測されない)電荷については中性の粒子がエネルギーを持ち去っているという仮説を1930年末に公表した。また、1932年に中性子が発見されたのをきっかけに、エンリコ・フェルミはベータ崩壊のプロセスを「ベータ崩壊は原子核内の中性子が陽子と電子を放出しさらに中性の粒子も放出する」との仮説を発表した。また、質量は非常に小さいか、もしくはゼロと考えられた。そのため、他の物質と作用することがほとんどなく、検出には困難を極めた。 ギュラ・チカイ(ハンガリー語版)はベリリウムを中性子で照射して得たヘリウム6を霧箱に導く装置を開発し、ヘリウム6がβ崩壊 6 H e → 6 L i + e − + ν ¯ e + 3.6 M e V {\displaystyle ^{6}\mathrm {He} \rightarrow ^{6}\mathrm {Li} +e^{-}+{\bar {\nu }}_{e}+3.6\,\mathrm {MeV} } する過程を撮影することに1956年10月に成功した。 1953年から1959年にかけて行われた フレデリック・ライネスとクライド・カワンの実験により、初めてニュートリノが観測された。この実験では、原子炉から生じたニュートリノビームを水に当て、水分子中の原子核とニュートリノが反応することにより生じる中性子と陽電子を観測することで、ニュートリノの存在を証明した。 1962年、レオン・レーダーマン、メルヴィン・シュワーツ、ジャック・シュタインバーガーらによって ν e {\displaystyle \nu _{e}} と ν μ {\displaystyle \nu _{\mu }} が違う粒子であることが実験で確認された。これは、15 GeV の高エネルギー陽子ビームを使ってパイ中間子( π {\displaystyle \pi } )を作り、ミュー粒子 ( μ {\displaystyle \mu } ) とミューニュートリノ ( ν μ {\displaystyle \nu _{\mu }} ) に崩壊してできたミューニュートリノを標的に当てた。この結果、標的で弱い相互作用によってミュー粒子は生じたが、電子は生成されなかった。
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