他の科学者との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:51 UTC 版)
「リーゼ・マイトナー」の記事における「他の科学者との関わり」の解説
マックス・プランクは、初対面での印象は良いとはいえなかったが、その後は強い尊敬の念を抱いた。マイトナーは一時期プランクの助手であったが、このことは自分の科学的能力だけでなく人間としての成長にも大きな影響を与えたと後に述べている。マイトナーはたびたびプランクの自宅に招かれ、そこではアインシュタインらとともにクラシックの演奏を行ったりして過ごした。 そのアルベルト・アインシュタインとマイトナーは、1909年の講演会で初めて出会った。そこでアインシュタインが講演した相対性理論の内容は、マイトナーにとって「眼がさめることのように新鮮であり、驚くべきことだった。」マイトナーはアインシュタインの能力を認めながらも、目立ちたがりでないマイトナーにとっては、マスコミの取材を良く受け入れていたアインシュタインの行動には理解できないこともあった。一方のアインシュタインは、マイトナーを「我らのキュリー夫人」と呼び讃えた。 そのキュリー夫人(マリ・キュリー)とは、1910年の第1回国際ラジウム学会で対面している。「あなたはもういくつか論文を発表していらっしゃるというのに、まるで若い娘さんのようにみえますね」と話しかけられたマイトナーが、「でもわたくし、もう三十を過ぎています」と答えると、「そういうことをおっしゃるものじゃありませんよ」と返された。この応答にマイトナーは「とても感じがいい」と思ったという。 マリ・キュリーの娘のイレーヌ・ジョリオ=キュリーとは、同じ研究分野であり、特に超ウラン元素をめぐる発見競争ではライバルの関係にあった。結果的にイレーヌらが発見した新物質は、マイトナーらによる核分裂反応の発見のきっかけとなった。 その核分裂反応の理論面で重要な役割を果たしたのがニールス・ボーアの理論であった。マイトナーは1920年、同僚と共に、すでに一流の物理学者であったボーアの講演を聞いたが、マイトナーたちには理解できない内容が多かった。そこで協力してボーアを自分たちのところに招き、質問ぜめにした。その後、深く知りあうようになってからは、ボーアのいるコペンハーゲンに招かれるようにもなった。亡命中は親身になってマイトナーの身の安全を考えた。 マックス・フォン・ラウエもマイトナーの亡命中、頻繁に手紙をやり取りした。マイトナーは、ラウエは唯一の誠実な友人で、いつでも頼りにできると述べた。またマイトナーはラウエの主催する水曜コロキウムと呼ばれる会合に最初から参加していた。第二次大戦後は、ドイツの科学者に対して、ナチスに消極的にせよ関わったのであるから責任を持つべきだと主張するマイトナーに対して、他の国の科学者であっても同じ場面に遭遇すれば同じ行動をとらざるを得なかっただろうと科学者を擁護するなど、意見の相違が見られた。しかし後年マイトナーは、ラウエとは「プランクの講義で知り合って以来、早すぎた死が彼を訪れるまで、たいへん仲のよい友人だった。」と語っている。 ジェイムス・フランクも水曜コロキウムからの長いつきあいであった。マイトナーとは戦後ドイツの問題を含めて意見が良く合い、「同じ言葉を話している」と感じた。互いに80代になったとき、フランクに「君に恋してしまった」と言われたマイトナーは、「今さら遅いわよ」と答えた。なおマイトナーは生涯独身で過ごした。長年共同研究を続けたハーンとも、一緒にいるのは実験室の中だけで、2人で散歩に出ることすらなかったという。 そのオットー・ハーンとは共同研究中、実験がうまくいくとブラームスの歌曲を合唱したりした。第二次大戦後はナチスへの責任問題などで意見が食い違い、関係はややぎくしゃくしたものとなった。とはいえ晩年においても、誕生日にはメッセージの交換などを行うなど、交流は続いていた。ハーンが死亡したのはマイトナーの死の3か月前のことであった。
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