仕事歴とは? わかりやすく解説

仕事歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 23:01 UTC 版)

小松原一男」の記事における「仕事歴」の解説

虫プロダクションTCJなど他社の作品もこなしながら、『魔法使いサリー』で原画昇格1968年朝日フィルムへ、1969年にハテナプロへとスタジオ移り同年の『タイガーマスク』で初の作画監督経験。『タイガーマスク』は小松原にとって初の劇画調作品であり、初期代表的な仕事評価されている。ハテナプロは分裂する形で解散し1970年小松原は、村田耕一米川功真才田俊次らと作画スタジオオープロダクションを設立オープロダクションは、東映動画東京ムービー日本アニメーション作品を手がけたが、小松原もっぱら東映動画作品参加した。しかし、メイプルタウン物語(1986年)を手がけて以降東映動画作品手がけることはほとんどなくなりトライアングルスタッフ制作作品参加移行した1972年『デビルマン』始めとして、『ゲッターロボ』(1974年)、『ゲッターロボG』(1975年)、『UFOロボ グレンダイザー』(1975年)、『マグネロボ ガ・キーン』(1976年)と東映動画永井豪原作テレビアニメキャラクターデザイン次々と任された。1987年からのマンガ版元にした『デビルマン』リメイクしたオリジナルビデオアニメでは、再びキャラクターデザイン作画監督務めている。 『宇宙戦艦ヤマト』ブーム巻き起こしていた松本零士作品キャラクターデザイン担当するようになり、1978年テレビアニメ『宇宙海賊キャプテンハーロック』1979年アニメ映画『銀河鉄道999』担当松本キャラクター挑んだアニメーターの中では小松原が一番の人気得てアニメ雑誌表紙ページ小松原イラストがしばしば飾った同時期の東映動画作品キャラクターデザイナーでは荒木伸吾人気博していたが、東京ムービー作品も手がけた荒木に対して小松原東映動画仕事中心としていた。松本作品コンビ組んだりんたろう監督とは、その後も『がんばれ元気』(1980年)で仕事をし、小松原自身遺作であるアニメ映画メトロポリス』もりんたろう監督作品だった。 永井豪松本零士といった男性向け作品ばかりでなく、『ミラクル少女リミットちゃん』(1973年)、『はーいステップジュン』(1985年)といった少女向け作品キャラクターデザイン担当している。宮崎駿請われ参加し作画監督としてクレジットされた1984年アニメ映画『風の谷のナウシカ』は、監督宮崎駿総作監督的な役割兼ねており、作画面では補佐的な立場だったが、東映動画長編時代全盛期知らない小松原にとって、宮崎から学ぶことは多かったという。 小松原オリジナルキャラクターでは、J9シリーズ呼ばれた国際映画社一連の作品もあった。 オープロダクション下請けとどまらず高畑勲監督迎え宮沢賢治原作の『セロ弾きのゴーシュ』を7年かけて自主製作して1982年公開する気概見せた小松原はこの作品企画担当している。

※この「仕事歴」の解説は、「小松原一男」の解説の一部です。
「仕事歴」を含む「小松原一男」の記事については、「小松原一男」の概要を参照ください。

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